韮山城
(にらやまじょう)

国指定史跡

              静岡県伊豆の国市四日町       


▲ 韮山城は北条早雲が伊豆支配の拠点とした城であり、関東進出後も終始この城を居城
とし続けていた。その後、五代百年にわたり後北条氏は栄え、豊臣秀吉によって滅ぼされて
しまう。この韮山城も豊臣勢との籠城戦の末に開城降伏したが、幸いにも城主北条氏規に
よって後北条氏の名は継がれて狭山藩主として明治に至った。(写真・韮山城権現曲輪)

後北条氏、原点の城

 天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原の役において、韮山城は後北条氏の城として寡兵ながらも最も長期にわたって豊臣勢の攻囲に耐え抜いた城として知られる。この戦いで韮山城は落城、五代百年にわたって栄えた小田原城の後北条氏は滅亡した。その後北条氏の出発点・原点となったのがこの韮山城なのである。

 後北条氏の初代となった北条早雲こと早雲庵宗瑞(伊勢新九郎盛時)ははじめ駿河守護今川氏親の軍師として今川勢を率いて遠江、三河を攻略して今川氏発展に大きく寄与しており、延徳(1489-92)当時は駿河東方の押えとなる興国寺城主であった。

 早雲が伊豆討入りを決行した年次は延徳三年(1491)とも明応二年(1493)とも言われているが、伊豆国主である堀越公方足利政知の没後の混乱を衝いて決行されたことは間違いない。今川家の援兵を加えた早雲勢は海路伊豆半島に上陸して真っ先に堀越御所を襲い、足利茶々丸を自害に追い込んだ(逃亡説もある)。そしてこの韮山城を築き、伊豆経略の拠点としたのである。

 この地域は御所が置かれた地であり、何といっても源頼朝旗揚げの地でもあり、鎌倉幕府百三十年を取り仕切ってきた北条氏の出身地でもある。早雲がこの地を好んで城を築いたのも分かるような気がする。

 明応七年(1498)頃、伊豆を平定し終えた早雲は相模へ駒を進め、小田原城を攻め取った。早雲は子氏綱を小田原城主にして自身は韮山城を居城とし続けた。永正十三年(1516)には三浦氏を滅ぼして相模を平定したが、この後も韮山城を出ることはなかった。よほど韮山は早雲お気に入りの土地であったのだろう。永正十六年(1519)、早雲はこの城で波乱の生涯を閉じた。

 その後、後北条氏は小田原城を本拠として関東に覇を唱えて行くが、韮山城は伊豆支配の支城として維持され続けた。

 天正十六年(1588)頃、豊臣秀吉との対決を想定するようになった後北条氏は当主氏直の叔父氏規を韮山城主とした。氏規は当主の名代として上洛、秀吉との折衝にも当たるほどの武将であった。結局は武力対決必至となり、氏規は韮山城の強化とその周辺(天ヶ岳)部に築砦を進めて豊臣勢の襲来に備えた。

 天正十八年(1590)三月二十九日、豊臣勢四万四千の大軍が韮山城を攻囲した。小田原攻略軍による戦闘が開始されたのである。これに対する韮山城は北条氏規以下三千六百の城兵が籠城戦に就いた。豊臣勢の十分の一以下の兵力であった。

 戦いは完璧な豊臣勢による包囲持久戦となり、小田原城攻め終盤に至り徳川家康の説得もあって氏規は六月二十四日、ついに開城して降伏した。

 開城後、氏規は家康経由で和平交渉に当たり、七月に入って小田原城は開城降伏した。これで後北条氏は滅びてしまうのであるが、氏規は許されて後に河内狭山七千石を拝領して後北条氏の名跡を継ぐことになった。狭山藩主となった氏規の後北条氏は代々続いて明治に至っている。


権現曲輪の土塁

▲権現曲輪から二の丸へ。
 ▲ 城池越しに眺めた韮山城址。
▲ 城池川の登城口。この日は散策路の補修工事中であったので資材や土嚢などが置かれていた。

▲ 登城口からクランク状の路を登ると右手が三ノ丸である。城内最大の曲輪で三方は土塁で囲まれている。現状は韮山高校のテニスコートとなっている。

▲ 三ノ丸の南側、堀切路を入って行くと権現曲輪である。

▲ 権現曲輪から散策路を南へ登ると二ノ丸である。土塁が巡っている。

▲ 二ノ丸と本丸の間の堀切跡。

▲ 城内最高所の本丸への登り口。

▲ 本丸。ここにも低くなっているが土塁の跡が見られる。

▲ 本丸から尾根伝いにさらに南へ向かう。

▲ 最南端近くには土塁で四角に囲まれた小さな曲輪がある。塩蔵と呼ばれている。煙硝曲輪ではなかったかと見られている。

▲ 塩蔵の虎口。

▲ 登城口に立つ説明板。
----備考----
訪問年月日 2012年1月3日
主要参考資料 「静岡県古城めぐり」他

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