山中城
(やまなかじょう)

                   静岡県三島市山中新田          


▲ 山中城岱崎出丸とその西側に設けられた畝堀。この出丸は豊臣勢を
迎え撃つために増設された曲輪で、旧東海道に沿って築かれている。

半日で潰えた
      東海道の盾

 山中城の創築は永禄年間(1558-70)に北条氏康によって箱根の天険を利して築かれたと言われている。当初は単に東海道を押さえる番城といったものであったと思われる。
 この山中城が後北条氏の築城技術の粋を凝らした堅城として生まれ変わるのは天正十五年(1587)頃から始まった北条氏政、氏直父子による改修工事によってである。いうまでもなく敵は天下統一を進める豊臣秀吉であった。
 その縄張は上方から東海道を下る大軍を食い止めるべく街道そのものを塞ぐかたちで成り立っている。さらに街道に並行するかたちで出丸が追加された。岱崎出丸である。
 天正十七年(1589)十月の名胡桃城事件で秀吉との合戦が必至となった。山中城では後北条氏の重臣松田康長が守将となり、城主に玉縄城主の北条氏勝を迎え、小田原城からの援将として朝倉元春、間宮康俊、同信俊、同信冬、同信重、多米長定、長谷川近秀らが加わり、総勢四千で防戦の態勢をとった。
 翌十八年二月二十四日、徳川家康が三万を率いて駿豆国境に進出、長久保城(山中城の西約9.3km)を本陣とした。三月一日、秀吉が大軍を率いて京都を出陣、二十七日に沼津城(三枚橋城)着陣、翌日には家康と共に山中城を視察して長久保城に入った。
 翌二十九日、豊臣勢は山中城の前面に進出して城攻めの態勢をとった。その軍勢約七万といわれている。兵力においては豊臣方が城方を圧倒していた。城攻めの総大将は豊臣秀次である。
 山中城西ノ丸の西櫓方面に徳川勢が取り付き、東海道に並行する大手口と岱崎出丸方面には中村一氏、山内一豊、田中吉政、堀尾吉晴、一柳直末といった秀吉子飼の武将たちが攻めかかった。
 城側の必至の防戦射撃によって大手(三ノ丸と岱崎出丸の間/南櫓)に攻めかかる一柳直末を斃して同隊に大きな犠牲を強いたが、物量の差と豊臣勢の勢いに押されて岱崎出丸の間宮康俊らが敢闘も空しく討死、出丸は早くも中村一氏隊によって制圧されてしまった。一番乗りは中村隊の部将渡辺勘兵衛了と伝えられている。
 岱崎出丸と大手口を押さえた豊臣勢は一気呵成に三ノ丸、二ノ丸に迫った。
 守将松田康長は城主として迎えた北条氏勝を城外に脱出させると自らは西ノ丸(本丸とも言われる)に残余の兵と共に立て籠もった。

▲ 本丸天守櫓跡から眺めた本丸。
 山中城最後の曲輪となった西ノ丸も落ちるのに時間はかからなかった。城外からは徳川勢の本多忠勝、榊原康政といった猛将の部隊が突入し、二ノ丸を制圧した豊臣勢も次々と西ノ丸内に雪崩れ込み、松田康長以下城兵は悉く斬死にして果てた。
 山中城の攻防戦はわずか二時間余であったといわれている。総攻撃開始前の攻撃準備や威嚇の射撃戦の時間を加えても半日ほどで落城したことになる。
 後北条流築城術の精華と評される山中城であったが、後北条氏は東海道の盾として豊臣の大軍をこの一所で撃砕できると考えていたのであろうか。それにしても呆気ない落城であったと言わざるを得ない。
 ▲ 三ノ丸西側の堀。堀底に畝があって二重堀となっていた。
▲ 田尻の池。城内の貯水施設である。溢れた水は三ノ丸の堀に流れ出る。

▲ 西ノ丸。山中城攻防戦の最後の場所となった(本丸とする説もある)。

▲ 西ノ丸と西櫓の間に設けられた障子堀。

▲ 北ノ丸。三方を土塁で囲まれた平坦な曲輪である。

▲ 本丸と北ノ丸間の堀に架かる木製の架橋。状況により破壊して敵の侵入を遮断する。

▲ 本丸の西、二ノ丸。北条丸とも呼ばれる。

▲ 合戦後三ノ丸跡に建てられた宗閑寺の両軍戦没者の墓碑。開基は岱崎出丸の守将間宮康俊の女お久の方と伝えられている。ここには間宮康俊とその兄弟一族、上州箕輪城主多米長定、山中城将松田康長、そして豊臣方の一柳直末の墓碑も建てられている。

▲ 岱崎出丸。右の土塁の外は畝堀となっている。

▲ 岱崎出丸の最先端部に設けられた擂鉢曲輪。平坦部が窪んでいる。

▲ 岱崎出丸の御馬場曲輪に建つ城址碑。

▲ 岱崎出丸から見える富士山。
----備考----
訪問年月日 2010年5月2日
主要参考資料 「日本城郭大系」
「静岡県古城めぐり」
「静岡県の城物語」
「戦国の堅城U」他

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