沼津城
(ぬまづじょう)

                   静岡県沼津市大手町四丁目       


▲ 沼津城は明治五年(1872)に静岡県によって城地、建物が競売に付
され、以後幾多の市街地整備を経て現在に至っている。石垣や堀など
の遺構は消滅してしまった。この中央公園はかつての本丸跡である。

武田の城から
         水野氏八代の居城へ

 沼津城の歴史は戦国期の三枚橋城と呼ばれた時期と江戸中期に水野忠友にはじまる沼津藩二万石(後に五万石)の城地としての時期に分けられる。
 三枚橋城と呼ばれたこの城の創築の時期は諸説あって判然としない。一般的には天正五年(1577)に武田勝頼が伊豆の北条氏に対抗して当地に築城、高坂源五郎昌元を城将としたとされているが、それより先の元亀元年(1570)の武田勢による駿河進攻時に勝頼が信州の諸士に命じて築城させたとも言われている。
 元亀当時の駿豆(駿河・伊豆)方面の武田、北条の抗争では北条側の善戦が伝えられている。元亀二年(1571)二月には戸倉城(沼津城の東3.7km)外で両軍が戦い、武田方の五百人余が戦死、三月には沼津城が北条方に攻略されたと言われている。
 その後再び武田方が沼津城を回復してより堅固に修築した。それが天正五年のことであったのかもしれない。信州海津城主であり信玄以来の老臣高坂弾正昌信(天正六年没)の後を継いだ次男源五郎昌元が沼津城の守将として入城したのは武田と北条の関係が極度に悪化する天正七年(1579)頃のことであったと思われる。
 一方の北条方では戸倉城に老臣松田尾張守憲秀の長男笠原新六郎政尭(まさたか)を配して沼津城に対抗させた。
 両城の間では時には戦いも起きていたであろうが、概して対峙状態にあったと思われる。
 天正九年(1581)十一月、高坂源五郎は笠原新六郎を誘降して戸倉城に兵を進駐させることに成功した。
 翌天正十年(1582)三月、織田信長の武田征伐によって勝つよりは滅び、徳川家康も駿河に進攻、興国寺城を落として沼津城に迫った。
 沼津城の高坂源五郎は勝頼の危機に馳せ参じようと城を捨てて甲斐に退去したといわれている。
 沼津城を接収した家康は松平周防守康親を城将として置いた。これによって駿豆国境の戦いは武田に替わった徳川と北条の戦いとなってゆく。この年の九月、東条松平を継いだ家康四男次丸(忠吉)が沼津城に入城し、康親がこれを後見した。
 天正十一年(1573)二月、家康は康親の伊豆における戦功に報いて食邑を給したという。六月、康親、沼津城に没し、子の康次(後に康重)が沼津城を引き継いだ。
 天正十八年(1590)、家康の関東移封により康次は沼津城を離れ、武蔵騎西二万石に移った。

▲ 中央公園内に建てられた「沼津城本丸址」の碑。
 その後の沼津城には駿府城主となった中村一氏の実弟氏次(一栄)が三万石で城主となった。
 慶長五年(1600)関ヶ原合戦後、駿河は再び徳川家に帰し、大久保忠佐が二万石で沼津城主となった。慶長十八年(1613)、忠佐、嗣子なく没したため除封となり、翌年に本多正純、安藤直次によって沼津城は破却され、当地は韮山代官所支配の天領となった。
 それから百六十年余の後、安永六年(1777)三河大浜一万三千石の水野忠友が十代将軍家治の命により二万石で沼津を拝領、新城の築城を開始した。
 城の規模は戦国期の沼津城(三枚橋城)の外堀や三の丸を撤去して二の丸を改修したもので大幅に縮小されたものとなった。
 沼津藩主水野氏は八代約九十年続いて明治に至った。歴代のなかには老中(初代忠友、二代忠成、七代忠誠)や側用人(六代忠寛)を務めた藩主もいた。
 ▲ 中央公園の本丸址碑の側に立てられた説明板の沼津城縄張図(江戸期)。
▲ アゴラ沼津前に部分復元された三枚橋城時代の石垣。ビル建設の際に地下から発見されたもので、本丸入口付近の石垣ということである。

▲ これも三枚橋城時代の石垣でビル建設に伴って発見された外堀の石垣。現在は沼津東急ホテルの玄関口を飾っている。
----備考----
訪問年月日 2010年5月2日
主要参考資料 「日本城郭大系」他

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