形原城
(かたはらじょう)

                   蒲郡市形原町         


▲ 形原城址として残されている部分は本来の城域の5分の1程度である。城
址周辺に東古城、北古城、南古城の字名が残っているが、この範囲を含めた
地域が戦国期の城域となる。現在、城址碑の建つ所が本丸であり、その東側
の平坦部が東の曲輪で、戦国当時にはともに海に突き出た地形であった。

悲しみを乗り越えて

 形原城は三河各地に分立した十四松平の一家、形原松平氏の戦国期における居城である。別名、稲生城とも呼ぶ。
 形原城の前身は平安後期に当地の荘官(下司)方原(源/武田)師光が築いた城館であると言われているが詳細は不明である。
 時は降り、群雄割拠の戦国時代を迎える。長享年間(1487-89)または明応年間(1492-1501)に松平氏三代信光の四男興副(ともすけ)が松平氏の勢力拡大に伴って当地に封じられた。その後、貞副、親忠と代を重ねた。
 永禄三年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が討死したことにより三河の情勢は大きく変わることになる。今川方の一翼を担って出陣していた松平元康(徳川家康)が岡崎城に入り、今川から独立したのである。松平系の諸氏はこぞって元康の自立を支えたことは言うまでもない。形原松平四代家廣も桶狭間の退却戦では殿軍となって大いに活躍したという。
 ところが、今川義元の後を継いだ氏真がこうした三河諸氏の離反を看過するはずもなく、吉田城に置かれていた三河諸氏の人質を串刺しにして処刑してしまったのである。この中には家廣の末子左近(または右近とも)が含まれていた。一説には今川方が人質の家廣の子を船に乗せ、形原城のすぐそばの浜(井尾浜)近くまで来て串刺しにしたと言われている。
 戦国の世とはいえ、それを目の当たりにした家廣とその家族、家中の者たちの悲しみと怒りは計り知れないものであったに違いない。
 永禄七年(1564)の吉田城攻めからは家廣の子家忠が戦陣に立ち、家康のもとで戦功を重ねた。天正三年(1575)の長篠合戦では酒井忠次に属して鳶ヶ巣山砦の奇襲に参加して活躍した。その後も酒井忠次に属し、天正十年(1582)に没した。
 家忠の後を継いだ家信も酒井忠次に属して活躍し、天正十年の諏訪高嶋城攻め、天正十二年(1584)小牧の陣、天正十八年(1590)小田原攻めなどに参陣している。家康の関東移封により上総国五井に五千石を拝領して形原を去った。
 関ヶ原合戦(1600)後、五井を改めて形原の地を与えられ、故郷の地に復した。元和四年(1618)、安房国内に五千石を加増されて一万石となり形原藩を立藩するも翌年には摂津高槻城に移り、二万石を領した。寛永十二年(1635)下総佐倉四万石に移封。同十五年に没した。
 その後、形原松平氏は丹波篠山五万石、そして丹波亀岡五万石の譜代大名として明治に至った。

▲ 本丸東側の曲輪跡。現在、この周囲は陸地となっているが戦国期には海に突き出た岬状の地形であった。
 ▲ 城址西側の道路脇に立てられた案内板。
▲ 案内板に従って進むと登り坂となる。これは「古城稲荷社」の鳥居である。

▲ 東の曲輪から本丸へと続く石段。

▲ 石段の近くに建てられた「烈婦・お妙塚」の碑と発掘された五輪塔。お妙は形原六代家信公の乳母であった。天正九年(1581)、家信公13歳の時、北条方の間者に暗殺されようとした際にお妙は身を挺して主君を守り、命を落とした。亡骸は城内に手厚く葬られたという。

▲ 本丸には稲荷社の社殿と城址碑が建っている。

▲ 城址から三河湾を展望。
----備考----
訪問年月日 2010年8月1日
主要参考資料 「蒲郡の古城」
「戦国人質物語」他

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