丹野城
(たんのじょう)

                   蒲郡市相楽町          


▲ 丹野城の本丸(主郭)跡。標高363.3mの御堂山山頂に
築かれた山城であり腰郭や堀切などの遺構が見られる。

新天地の夢破れたり、
          御堂山合戦

 応仁の乱(1467)によって戦国の争いは全国へと無秩序に広がった。三河国とて例外ではなかった。
 文明元年(1469)、突如としてここ御堂山に城塞(丹野城)を築いて気炎を上げた武将がいた。萩原左衛門芳信という。
 諸書には萩原芳信のことを備後刺使と記している。刺使とは唐名で国主を意味するという。無論、応仁当時の備後国に萩原氏が国主であったとの記録はない。伝説では藤原鎌足三十八代の孫、萩原道前の子孫で、備後国萩原の里(広島県三原市大和町萩原)に住したと言われているから、何らかの理由で故郷を落ちて三河の地に現れたものであろう。三河守護細川成之の被官であったとも言われているから、東軍の看板を背負って現れたのかも知れない。衰えたりとはいえ、東三河には一色氏(一色城/西軍)が存在していたからである。
 それにしても萩原芳信のやり方はかなり強引であったようだ。城址に掲げられた説明板からもそれがうかがえる。「全福寺の資産を取り掠め山頂に拠って城郭を築き、あるところの仏器を融して兵器となす」とあり、同寺の僧徒を動員して築城工事を進めたとある。また甲冑を着させて兵としたとも言われる。全福寺はここ御堂山中腹にあった寺院で、丹野城登城口近くの「蒲郡さがらの森」公園内に礎石が残っている。縁も所縁もない新天地で一旗上げようというのだから、その所業も強引とならざるを得なかったのかも知れない。
 城址に立って南側を眺めると蒲郡市東部(大塚)の住宅地と三河湾が俯瞰できる。萩原芳信が支配しようとした土地であろう。しかしながら、芳信の夢は、その翌年にははやくも挫折させられてしまう。
 文明二年(1470)七月、敵兵に山を囲まれた芳信は自ら手勢を率いて城を打って出、これを追った。御堂山合戦という。この敵兵というのは説明板では牧野氏としている。当時、牧野氏の組下で大塚の領主であったのは岩瀬氏(中島城)であったから、この戦いに参戦したものと思われるが、それを記した資料は無いようだ。
 さて、芳信が敵を追って赤根(豊川市御津町)まで来たとき、率いてきた兵たちが突如襲い掛かってきたのである。日頃の暴悪ぶりにたまらず、芳信に背いたのだという。進退窮まった芳信は馬上屠腹して果てたと伝えられている。その地を備後林と呼ぶそうだ。
 萩原芳信の子に男子二人(四歳と二歳)と女子一人がいた。男子二人は赤根の今泉家に匿われ、長男四郎は後に養子となって分家したという。そして姫の方は落城によって落ち延びたが、途中で自害して果てたという。大塚に「姫塚」と呼ばれる史跡があり、芳信の息女が自害したところと伝えられている。

▲ 本丸西北側の搦手に設けられた堀切。
 ▲ 御堂山山頂の丹野城跡への登城口。
▲ 登城路はこのようにコンクリートで舗装されている。

▲ 登城路を登り詰め、本丸前に出るとこうした祭神が祀られている。

▲ 堀切に沿って石塁の跡が残る。

▲ 丹野城本丸からの眺め。三河湾が見渡せる。

▲ 萩原芳信公の息女が自害した所と伝わる「姫塚」。碑文には牧野成時入道古伯が丹野城を攻めたと記されている。
----備考----
訪問年月日 2010年10月16日
主要参考資料 「蒲郡の諸城」
 ↑ 「蒲郡風土記」他 

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