杉山城
(すぎやまじょう)

                   豊橋市杉山町            


▲ 杉山城跡として城館資料では寶林寺北側の丘(字松岡)を城址として
いるが、杉山城を当地の領主杉浦氏の居館と見るならば字殿村を城址とす
べきかもしれない。この風景は字殿村あたりを北側から眺めたものである。

歴史に埋もれた領主

 杉山城の城主として伝えられているのは杉浦右衛門太夫と杉山久助俊輝である。しかしこの両人がどのような人物であったのかは分からない。
 「杉山村誌」(明治二十年稿)によれば、杉浦氏がこの地を開拓して邑(村)となり、やがて領主として士卒を養い城郭を構えたとある。最初に当地にやってきたのは応神天皇の御代(300年頃)というから相当に古い話である。その真偽はともかく、杉浦氏は代々この地で栄えたものと思われる。
 城の場所も伝承によるほかなく、村誌によれば明治十四年(1881)に杉浦氏の臣族の末裔鈴木氏が城郭内に構えていた居を他へ移して城跡を畑地としてしまったという。その場所は字殿村となっている。城跡は開墾されてしまったので遺構も悉く均され「其旧跡全く見るなきに至る」となってしまった。
 字殿村の西約200mに禅刹寶林寺がある。その裏手に一部墓地となっている丘がある。字松岡という所で、杉浦氏の家老松岡治右衛門の居城跡や浜御殿などがあったと言われ、城山とも呼ばれている。
 余談ながらこの村には太古より聳える大杉があって村の象徴のようになっていた。いつの頃か倒れて現在は無いが、その場所は字殿村の北側の字宮脇という所にあったそうである。その大杉は領主の居館の裏にあったということから杉浦氏を名乗ったと言われる。
 時は流れ、世は戦国の様相を色濃くする頃、京都において応仁の乱(1467)が勃発した。乱の火種は地方にも飛び火してここ杉山の地にも戦火が及んだ。杉浦氏は一族を挙げて戦ったのであろう。この時に皆滅ぼされ、千年以上におよぶ同氏の事績もことごとくが灰となり歴史の闇に埋もれてしまった。
 その後、杉山久助俊輝が杉浦氏の城館跡に居したようである。杉山氏は徳川家康の家臣であったともいわれているが、それを証するものはないようだ。
 杉山氏の後、杉浦氏の臣族鈴木某が城郭内に居を構えて代を重ね、明治に至ったということである。

▲ 寶林寺裏手の丘はかつて杉浦氏の家老松岡治右衛門の居城跡で、城山と呼ばれている。
----備考----
訪問年月日 2010年4月25日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「杉山村誌」他

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