岡崎城
(おかざきじょう)

                   袋井市岡崎         


▲ 岡崎城跡。丘の上の茶園部分が主郭となる西郭
の跡である。土塁痕、空堀跡などの遺構がみられる。

岡崎の城山

 戦国期、ここ笠原庄岡崎郷付近を領していたのは今川義元の家臣四之宮右近であったと言われている。
 岡崎城はその四之宮右近の城砦跡と見られているが、詳細は不明である。別説として天正期(1573-92)の陣城ではなかったかとの見方もある。城は丘陵端を利用して東西に二つの郭を設け、その間を空堀で区切っている。
 四之宮右近の妹(姉ともいわれる)は主君今川義元の側室であったといわれ、名を菊鶴と言った。義元が桶狭間合戦で敗死した後、今川氏真のはからいにより家臣三浦右衛門義鎮の妻となったと伝えられている。三浦義鎮は氏真の寵を得て権勢を欲しいままにし、領民からは憎まれ、譜代の家臣とも反りが合わなかったと言われる。
 永禄十一年(1568)暮れ、武田信玄の大軍によって今川氏真は駿府を追われて掛川城に逃げ込んだ。戦国大名今川氏の崩壊である。今川家臣も散り散りとなり、武田方に降る者も多くいた。
 この混乱の中、三浦義鎮は妻菊鶴と一族家人七十余人とともに駿府を脱し、主君氏真を追って掛川城に向かった。ところが、掛川城主朝比奈泰朝に入城を断られてしまう。泰朝と義鎮は顔を背け合うほどに仲が悪かったといわれていた。
 仕方なく義鎮一行は馬伏塚城(城主小笠原氏清)に向かったが、ここでも入城を断られてしまったと言われる。途方に暮れた義鎮は妻菊鶴の在所である岡崎郷に向かった。馬伏塚城の南東約1kmのところである。
 この時の義鎮一行の辿り着いたところがこの岡崎城であったかは分らないが、四之宮右近がこの城砦に館を構えていたとすれば、その可能性も考えられる。
 この夜、疲労困憊の義鎮一行を徳川方に寝返った小笠原氏の軍兵が襲った。義鎮は妻子とともに自害、一行七十余人も悉く自害して果てたという。
 後日、遺体は村人たちによって沓掛原に葬られた。その場所は今も右衛門塚と呼ばれている。
 四之宮右近のその後は不明である。三浦義鎮らとともに自害したとも伝えられている。

▲ 西郭(主郭)と東郭を区切る空堀跡。

▲ 城址に建つ北八雲神社。参道の西側(左)に空堀跡が残っている。

▲ 東郭は西郭より低く、一回り小さい。現状は茶園となっている。

▲ 東郭西側の土塁痕と見られる高まり。
----備考---- 
訪問年月日 2010年12月5日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」
 ↑ 「磐南文化-7」他 

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