まむしづかじょう
(まむしづかじょう)

                   袋井市浅名           

馬伏塚城
▲ 城址本丸部分を望見。かつての土塁部は宅地や畑地となって
  いる。わずかに大木の茂る場所が土塁遺構として残っている。

遠江小笠原氏の
          興亡

 文亀元年(1501)、今川氏親と早雲による遠江攻略の際にその名が登場するのがこの城のはじまりのようである。無論、この当時は小砦程度であったであろう。
 この小砦とその周辺の三輪、岡崎、清ヶ谷、横須賀の四郷を与えられてやってきたのが遠江小笠原氏の祖となる信濃守長高であった。
 小笠原氏の発祥の地は甲斐で、その後信濃に移り深志城主となった。長高は長子であったから深志城主となるはずであったが、継母と実父に疎まれ、尾張知多の名和に身を避けた。その後、三河吉良氏に奇遇して吉良義尭(よしたか)の女を娶り一家を構え、さらに次男を幡豆城に残して長男と妻とともに今川氏の被官として当地へ移って来たのである。
 長高は早速馬伏塚城の構築と新天地の開拓に取り掛かった。その長高の没したのは天文十三年(1544)、五十七歳であった。
 二代春義のとき、今川氏は家督争いで二つに割れた。春義は後の義元方につき、反対派の福島正成の高天神城を攻め落した。その功により高天神城を与えられ、二つの城の城主となったのである。
 三代氏清の頃になると今川氏も氏真の代となり、斜陽の一途をたどっていた。永禄十一年(1568)、小笠原一族である三河幡豆の小笠原康元が家康の命をうけて城へやってきた。
「徳川殿に従うべし」
 氏清は今川を見限る決心をした。
 翌年六月、氏清病没して長忠が後を継いだ。元亀二年(1571)長忠は高天神城主として武田信玄の猛攻に耐えたが、天正二年(1574)の武田勝頼の猛攻には耐えられず開城してしまった。長忠は武田に服し、駿河国富士郡に一万貫を与えられて移った。武田滅亡後は北条氏政を頼って鎌倉に隠棲したが、徳川方の知るところとなり、氏政の手によって討たれてしまった。秀吉に対抗するために徳川と北条の同盟が強固となっていた時期であったのだ。
 さて、高天神城が武田に降伏して小笠原氏が去り、無主となった馬伏塚城は高天神城奪回を図る拠点として家康の接収するところとなり、大須賀康高が入ったのである。天正八年九月、康高が横須賀城を築いて移ると、高力清長が城主となった。その二年後、清長は田中城へ移り、馬伏塚城はその役目を終えて廃城となった。
土塁跡
▲ 土塁を切開いて道が本丸を分断している。
  土塁の断面から、その堅固さがうかがえる。
----備考----
画像の撮影時期*2005/03