横須賀城
(よこすかじょう)

                   掛川市西大渕           


▲ 西の丸と本丸の間の登城口。見事な大玉石垣が復元されている。

横須賀衆、
       かく戦えり

 天正六年(1578)春、徳川家康は高天神城攻略の根拠地とするために、それまでの馬伏塚城からさらに前進して横須賀の地に築城を開始した。
 築城の命を受けたのは馬伏塚城主となっていた大須賀五郎左衛門康高であった。康高は天正二年に高天神城が武田勝頼の手に落ちた際に無主となつた馬伏塚城を家康から与えられていたのである。ここにきて家康が横須賀築城に乗り出したということは高天神城攻略に本腰を入れるということの表れであったのだ。
 康高は築城場所の選定、つまり城地検分の結果、はじめは三熊野神社の三社山(横須賀城址東方約1`)が適地と考えたのであるが、そこは文武天皇に関わる由緒ある地であったためにそこを避けて現在地に定めたと云われている。地理的には浜街道と呼ばれる道筋を押えており、武田軍の西進を阻む位置にある。さらに天然の良港(宝永の大地震以降は地盤の隆起によって現在の海岸線となっている)ともいえる入江を扼しており、武田水軍にとっても大いに脅威となるはずであった。
 築城開始と同時に康高は馬伏塚城から普請中の横須賀城に早くもその根拠地を移したものと思われる。そして家康は大須賀勢そのものを強化するために、今川家の崩壊や武田による高天神城落城によって野に散った在郷の士を糾合、また高天神落城後に徳川方に帰参した者らを康高の配下に付けたのである。
 康高自身、徳川家臣団の中でも歴戦の勇士である。家康の配慮によって増強された康高率いる大須賀勢はいつの頃からか横須賀衆、または横須賀組あるいは横須賀党などと呼ばれ、その後幾多の合戦で活躍してゆくことになる。横須賀衆の中でも渥美源五郎勝吉、久世三四郎広宣、坂部三十郎広勝らの名が知られている。
 この年の八月、大須賀勢をはじめとする徳川勢は高天神城下に進み、付近に放火した(高天神記)。
 これは城方の糧秣を断つために田畑を焼いたものであろう。この時、城兵も出てきて合戦となった。大須賀勢にとって横須賀城に進出してきて最初の戦いである。一番槍久世三四郎、二番槍渥美源五郎、一番首坂部三十郎と伝えられている。いずれも横須賀衆の面々である。戦いは石川康道、久野宗能らの軍勢も加わって徳川方の大勝に終わった。

▲ 本丸跡の城址碑。その右の一段高くなっているところが天守台跡である。
 翌月、横須賀築城をはじめとする徳川方の積極的な動きに対応して武田勝頼は甲府を出陣、十月には小山城から相良方面に陣取った。目的は高天神城への兵糧の搬入である。
 家康も信康とともに馬伏塚城に進出した。十二月三日、家康はさらに進んで三社山に本陣を置いた。いうまでもなく横須賀城は大須賀康高以下の横須賀衆が守りを固めた。
 武田軍は浜街道を西進して、小笠原長忠(前の馬伏塚城、高天神城の城主、天正二年武田に降る)を先手に横須賀城を攻めた。
 この時も渥美源五郎が一番首をあげた。
 戦いは武徳双方ともに深入りすることなく終った。翌天正七年にも勝頼は国安(高天神城の南)に二度布陣している。いずれも兵糧の搬入が目的で大きな合戦には至らなかった。
 この年九月、康高と横須賀衆は高天神城下に進んで田畑を焼いて廻り、城兵と戦った。この戦いでも横須賀衆の働きはめざましく、首五十七を取って家康から褒められている。
 この頃から家康は高天神城への糧道を断つために小笠山砦三井山砦などを築いて完全包囲の態勢を固めはじめた。
 天正八年、一般的にはこの年に横須賀城が完成したことになっている。七月、家康は三千を率いて横須賀城に入った。そのほか七千余の軍勢が各砦に陣取り、高天神城を完全に孤立させた。康高以下横須賀衆七百五十は中村城山の砦に陣取った。完璧な兵糧攻めである。
 翌天正九年三月二十二日、兵糧が尽き、武田の援軍も期待できぬ状況となった高天神城ではこの夜、全軍が打って出た。康高以下横須賀衆は徳川勢のなかでも高天神城下に最も接近した位置に布陣していたために真っ先に城内に踏み込んだと伝えられている。久世三四郎は城兵との剣戟によって飛び散る火花で敵味方を見分けたと云われ、その奮戦ぶりが伝えられている。
 この戦いで高天神城は落城した。翌十年には武田勝頼は天目山に滅びた。

▲ 北の丸と松尾山。

▲ 西の丸。本丸とほぼ同じ高さで続いている。

▲ 本丸跡南端に残る三日月池。
 その後も康高と横須賀衆は各地の戦場で活躍し続けた。
 天正十七年(1589)六月二十三日、康高は横須賀城下の撰要寺に参詣、本堂阿弥陀如来の前で発病急死した。享年六十二歳、戦陣に明け暮れた生涯であった。
 康高には嗣子がなく、娘婿の榊原康政の長子忠政が大須賀家を継ぎ、横須賀三万石の二代目城主となった。まだ九歳であったため、久世三四郎ら横須賀衆の重鎮がこれを補佐した。
 翌天正十八年、小田原北条氏が滅びて豊臣秀吉の天下となると大須賀忠政は上総久留里城三万石に転封となって横須賀衆とともに城を出た。
 その後豊臣系の渡瀬左衛門佐詮繁、有馬玄蕃頭豊氏が三代目、四代目の城主となったがその治世は過酷なものであったようだ。関ヶ原合戦後、再び大須賀忠政が五万五千石で横須賀城に戻ることになった時、領民たちは大いに喜び、金谷や島田あたりにまで出迎えに出たと云われている。横須賀衆の面々にとっても最も晴れがましい時であり、また領民たちの出迎えに歓喜の涙が頬を洗っていたに違いない。
 慶長十二年(1607)、忠政病没。わずか三歳の嫡子忠次が六代目城主となった。慶長二十年(1615)の大坂夏の陣では天王寺口に布陣したと云われている。
 夏の陣の後、榊原康勝(康政の三男)が嗣子のないまま没した。榊原家断絶を惜しむ家康は忠次に榊原家を継ぐように命じた。無論、大須賀家は断絶となった。
 そして横須賀衆も他家に仕官するなどしてその歴史を閉じたのである。もっとも、その多くは横須賀城主となった徳川頼宣に従い、その後頼宣とともに紀伊に移ったと伝えられている。
 その後、横須賀城主は松平重勝、同重忠、井上正就、同正利、本多利長と続き、天和二年(1682)からは西尾忠成が封じられて忠尚(ただなお)、忠需(ただみつ)、忠移(ただゆき)、忠喜(ただよし)、忠固(ただかた)、忠受(たださか)と七代続いた。そして最後の二十代目城主西尾忠篤(ただあつ)が明治元年(1868)に房州花房へ移封となって横須賀城の歴史は幕を閉じた。

▲ 天正九年、大須賀康高によって創建された景江山撰要寺の山門。この山門は明治の廃城時に不開門を移築したものである。

▲ 移築された不開門には「立ち葵」の紋が残っている。これは十二代城主本多利長によって建造されたものである。

▲ 撰要寺境内の大須賀康高(右)と忠政(左)の墓塔。

----備考----
画像の撮影時期*2004/08
及び2007/06