こやまじょう
(こやまじょう)

                   榛原郡吉田町片岡           

小山城展望台
▲ 二の曲輪跡に建造された天守閣風の展望台兼史料館。

遠江経略の
      橋頭堡

 元亀元年(1571)、徳川家康は駿河方面からの武田勢の侵入に備えるために掛川城番松平左近真乗に小山一帯の切り取りを命じた。この当時、小山城はまだ砦ほどの小規模なものであったが、すでに武田勢の一隊が進出していたのである。松平真乗は小山城の武田勢を駆逐して城の奪取に成功、新手の武田勢の侵入に備えることになった。
 元亀二年二月、武田信玄が二万五千の大軍を率い、大井川を渡って殺到してきた。松平真乗がいかに勇猛であっても敵う相手ではない。松平勢は城を捨てて去った。
 小山城を抜いた信玄は相良方面に進出して滝境に築城した。この小山、滝境の両城は武田方の遠江進出の拠点として以後大きな役割を果たしてゆくことになる。
 武田方の城となった小山城は馬場美濃守信房が縄張りして築城が進められ、武田流の堅固な城塞へと変貌した。城主には大熊備前守が抜擢され、武田方の支城として磐石の態勢がとられた。
 無論、武田の鉾先は要衝高天神城に向けられていた。小山、滝境の城塞化を整えた信玄は高天神城近くに駒を進め、様子見程度に軽くひと当てすると軍を北へ進めた。周知郡の天方城、犬居城を味方に収めると兵糧の備蓄を命じて甲州へ戻って行ったのである。信玄の頭の中にはすでに家康攻略の青写真が出来上がっていたに違いない。
 翌年、信玄は三方原で家康を散々に打ち破った。しかし、空しいかな軍旅の途中で死去してしまった。
 天正元年(1573)秋、信玄の後を継いだ武田勝頼は高天神城への進撃路、即ち小山城の安定確保のために諏訪原に城を築き、翌二年六月に念願の高天神城を攻略した。このことは信玄亡き後も武田の健在ぶりを誇示した快挙であったといえる。
本曲輪跡
▲ 本曲輪跡。茶畑となっていたが、現在では
  町の整備によって城址公園となっている。
 しかしその翌年、勝頼は長篠において織徳連合軍に大敗を喫し、名だたる名将の多くを失ってしまった。
 一方、徳川家康は好機到来とばかりに諏訪原城を落とすことに成功、勢いに乗じて小山城に迫ったのである。
 ところが危急を聞いて駆け付けた勝頼の大軍二万が大井川を渡って徳川勢の背後に迫ってきたのである。小山城を包囲していた家康は慌てて退却せざるを得なかった。
 このとき小山城では鳥井長太夫、蒲原小兵衛、望月七郎左衛門らが守りを固めており、退却に移った徳川勢を追って岡部忠兵衛、鈴木弥右衛門、朝比奈金兵衛ら二、三百騎が打って出た。しかし、逃げる徳川勢もさるもの、酒井左衛門、大久保七郎右衛門らが必死の形相で殿軍を固めており、城方の鳥井長太夫は深追いを止めさせて早々に城内へ引き上げたのであった。
 徳川勢の退散を見届けて小山城へ入った勝頼は城兵に対して感状を与え、親しく労いの言葉をかけて帰国したという。
 その後、小山城は高天神城への補給基地としての役割を担い続けてゆくのである。
三日月堀
▲ 二の曲輪に再現された三日月堀と
   丸馬出し。武田流築城の特徴である。
三重の三日月堀
▲ 三の曲輪の前面に設けられた三重の三日月堀。
 天正七年、家康は小山城を横目にしつつ大井川を渡り、駿河の田中城、用宗城などを攻めはじめた。無論、大井川岸の小山城の存在は常に目の上のこぶのようなものであった。
 翌八年七月、高天神城を包囲する六砦(小笠山砦、獅子ヶ鼻砦など)を完成させた家康は掛川城に入った。そして二十一日には小山城近くの色尾に布陣、附近の田の稲を刈り払った。城方の兵糧米の自給を阻止するためである。
 これを見た城方も黙って見てばかりではなかった。二十二日、城方の一隊が徳川勢を襲い、酒井左衛門尉の一隊と戦っている。
 家康はこの日、石川伯耆守に田中城の攻撃に向わせ、二十四日には小山の陣を払って浜松へ帰城したのであった。
 天正九年(1581)、駿遠における武田の支配にも蔭りの色が濃くなっていた。頼みの高天神城もついに家康の手中に落ちてしまったのである。同時に武田方の北遠の諸城も一挙に家康のものとなった。
 翌天正十年二月、織田、徳川、北条の三軍による武田討伐が開始された。同月十八日、家康は浜松城から掛川城へ駒を進めた。この二日前の十六日、小山城の城兵は戦うことの無意味を悟って城を去っていた。甲州へ走る者、太刀を捨てて帰農する者と様々であったに違いない。また、滝境城や相良城も同様に城兵らは戦わずして城を去っていた。
 勝頼が颯爽と大井川を渡り、この小山城に寄り、幾度となく高天神城方面に出撃していた数年前の情景が最早昔日のものとなった。高天神城をめぐる熾烈な攻防が夢であったかのように。武徳十二年戦争ともいえる遠江における戦いもこの小山城の徳川方による接収によって終ったといえよう。
 家康は二十一日、悠然として駿府に入った。さらに身延を経て、三月十一日には甲府に駒を進めた。その日は勝頼とその一族滅亡の日でもあった。
 小山城の接収から幾星霜、幾度となく徳川勢の攻撃に耐え抜いた城址には今もなお武田流三日月の三重堀が当時のまま横たわっている。
供養塔
▲ 武徳の戦死者を弔う供養塔。
能満寺
▲ 城址南側の能満寺。ここも城に付随
 する曲輪のひとつであったという。
----備考----
画像の撮影時期*2005/11