田中城
(たなかじょう)

                  静岡県藤枝市田中           


▲ 「田中城本丸櫓」。本丸東南隅にあった「御亭(おちん)」と呼ばれる二階建ての建物で、
維新後払い下げられて住居として使われていた。現在は田中城下屋敷跡が史跡公園
として整備され、この本丸櫓をはじめ元城内にあった建物が移築保存されている。

武徳攻防、
     円形の城

 永禄十一年(1568)の暮れから天正十年(1582)の武田氏滅亡に至る期間、駿河から遠江、三河にかけての広い戦域で武田勢と徳川勢が血で血を洗う激しい攻防戦を展開している。この間の戦いを総じて「武徳戦争」と呼ぶことがある。
 ここ田中城に武田勢が本格的に進出してきたのは、目の上の瘤であった蒲原城の北条勢を駆逐した後、永禄十二年(1569)の暮れのことであったと思われる。
 当時は徳一色(とくのいっしき)城と呼ばれ、今川の家臣長谷川正長の一党三百余騎が守っていた。
 徳一色城の創築はよく分からないが、南北朝時代頃に当地の郡司一色氏が居館を構えたことに始まるようである。具体的には一色左衛門尉信茂の名が伝えられている。
 さて、徳一色城に迫った武田勢は城の南側新宿口から攻め込んだと云われる。まだこの時は円形の城ではなく方形の掻揚げ城に過ぎなかったから、百戦錬磨の武田の大軍に攻められては敵うはずもない。長谷川正長らは命からがら城を脱して瀬戸川西岸の金毘羅山に逃げ込んだと云われている。
 長谷川正長らは、もはや今川家の再起は無理と悟り、そのまま大井川を渡って徳川家康の麾下に身を投じたのであった。その後、正長は三方原合戦で壮烈な討死を遂げるが、その子孫は旗本として続き、江戸時代には火付盗賊改で名を残した鬼平こと長谷川平蔵宣以が知られている。
 徳一色城を奪った武田信玄は重臣の馬場美濃守信房に城の修築を命じた。馬場信房は方形の館城を本丸としてその周囲に三日月堀と馬出しを新設、水堀も二重から三重に拡張してほぼ円形の城を築き上げた。
 「甲陽軍鑑」永禄十三年(1570)正月の事として「藤枝とくのいっしきあけてのく、是は堅固の地なりとて馬場美濃守に抑え付けられ、馬出しをとらせ、田中城と名付く、暫く番手持ち也」とある。城名が田中城と呼ばれるようになったのもこの時からであろう。後年、江戸期の軍学者は城の形態から「円形の徳、角形の損」と評し、丸い城ほど防御に有利であると云ったという。とはいえ、実際に円形の城が築かれた例は稀ではないだろうか。
 修築なった田中城には山県昌景が二百騎を率いて守りに就いた。その後は在番が置かれ、孕石主水の名が見える。
 天正三年(1575)、長篠合戦で武田勝頼は大敗して信玄以来の重臣を多く失ってしまった。一方の徳川家康はこの期を逃さじと一転して攻勢に出たのである。家康はまず、浜松城の頭を押さえる位置にある二俣城の奪還に取り掛かり、半年にわたる攻防の末に開城させることに成功した。
 この二俣城の守将は依田信蕃(のぶしげ)で武田の信州先方衆の武将であった。二俣城を退去した依田信蕃は天正七年(1579)にここ田中城に入り、再び徳川勢との戦い備えたのである。
 この頃には勝頼の築いた諏訪原城も家康のものとなり、徳川勢はそこを拠点に大井川を渡って田中城にまでその矛先を伸ばしている。とはいえ田中城は武田流で築かれた堅城である。徳川の戦術はもっぱら刈田や放火に終始していた。

▲ 武田氏によって改修・拡幅された二之堀の一部が現在も残っている。本丸西側にあたる。向こうの橋は「大手二之橋」と呼ばれている。
 天正九年(1581)三月、遠江における武田最後の牙城であった高天神城が徳川の兵糧攻めによって落城した。実に七年に及ぶ籠城戦であった。高天神城を失った武田の退潮はもはや戻し難いものとなっていた。
 天正十年(1582)二月、織田信長による武田征伐が開始され、家康も全軍を率いて駿河へ進攻した。そして田中城を包囲したまま駿府に入った。
 家康は戦う意味の無くなった田中城の依田信蕃に開城を勧めた。さらには家康に降った武田一門の穴山梅雪までもが開城降伏を勧めた。
 田中城の依田信蕃は戦うことの無意味を知り、開城してその身を家康に預けた。
 その後、家康は信長の武田旧臣狩りから信蕃を守るために遠州の山里の小川砦に匿った。信蕃はその恩義に報いようと家康の信州平定戦に活躍、常に先頭に立って戦い続けた。そして天正十一年(1583)、信州岩尾城攻めで壮烈な最期を遂げた。
 徳川の城となった田中城には三河譜代の高力清長が一万石で城主となった。
 天正十八年(1590)家康の関東移封後は駿府城に入った中村一氏の支配となり、その家臣横田村詮が在番した。
 関ヶ原合戦(1600)後、酒井忠利が一万石で入り、総曲輪が拡張された。現在の田中城跡の形が整ったのはこの頃であると云われている。
 その後、松平、水野、北条、西尾、土屋、太田、内藤、土岐といった譜代大名が頻繁に交代した。享保十五年(1730)に本多正矩四万石の入封によって城主が落ち着いた。本多家田中藩は七代続いて明治を迎えた。

▲ 下屋敷跡の公園内に再現された大溝跡。中央の白い標柱の左の木は家康公御手植えの蜜柑だそうだ。

▲ 本丸櫓の内部。畳が敷き詰められている。

▲ 下屋敷跡の公園内には本丸櫓をはじめとするいくつかの建物が移築保存されている。これは田中藩家老の茶室であったとも伝わる建物である。

▲ かつての本丸跡は現在、西益津小学校となっている。正門前には「田中城本丸跡」の木碑が建っている。

▲ 本丸北側の「三之堀・土塁跡」。武田氏時代の外郭にあたる土塁と堀の跡である。土塁の手前の畑地が堀跡になる。

▲ 本丸西側に残る三之堀の一部。奥の建物は西益津中学校である。

▲ 西益津中の校門脇に建つ「従是西田中領」の牓示杭(ぼうじくい)

▲ 本丸東側にわずかに残る三日月堀の跡。

▲ 本丸跡の西400㍍ほどの交差点に建てられた「田中城跡」の石碑。
----備考----
画像の撮影時期*2008/05