小川砦
(おがわとりで)

                 浜松市天竜区小川          


▲ 砦跡は気田川の湾曲部にあり、この川が天然の外堀となっている。
  「ヌタ山」と呼ばれる山中には土塁、空堀等の遺構が存在するという。

匿われ人の
       隠れ家

 依田常陸介信蕃(のぶしげ)は武田麾下信州先方衆の有力な武将である。出身は佐久郡芦田(立科町)で、はやくから武田信玄に属していた。

 元亀三年(1572)、武田信玄は大軍を率いて信州から青崩峠を越えて遠州へ怒涛の如く進攻、二俣城を攻め落した。その後、三方原で徳川家康に痛打を与え、さらに三河へと駒を進めたのであるが、この時に依田信蕃が二俣城主となったのである。

 三年後の天正三年、武田は長篠合戦で大敗を喫し、遠州においては徳川家康による反撃がはじまった。武田の遠州における最前線基地となっていた二俣城は真っ先に徳川勢の包囲するところとなった。依田信蕃は二俣城を守って約半年間戦い抜いた。しかし武田勝頼の救援もないまま孤軍奮闘にも限界があり、ついに開城して退去した。

 その後駿河の田中城に入り、再び徳川勢と戦った。だが、ここでも救援の見込みなく孤軍奮闘の末、徳川に降った。武田に見切りをつけたのであった。

 家康は信蕃をその場で召抱えようとしたが、国許を気遣う信蕃の帰国を許した。信州に戻った信蕃は小諸城で森長可と会い、信長に謁するために諏訪へ向った。

 ところが、その途中で家康から急使があり、信長のもとへ行けば切腹させられると報じてきたのである。武田遺臣に対する信長の処罰は苛烈で、家康は信蕃を失いたくなかったのである。

 前置きがながくなったが、こうして信蕃一行がやってきたのが、ここ小川砦であった。匿われ人の隠れ家である。

 かつての敵に迎えられ、再び北遠の地を踏むことになろうとは夢想だにしていなかったであろう。

 その後、信蕃は徳川勢の先手として信州平定に活躍、北条軍と戦い、真田昌幸を誘うなどして功績をあげ、小諸城代となった。信蕃は家康の恩に報いようと常に先陣に立って戦った。天正十一年、信蕃討死。岩尾城攻めが最期の戦いであった。


小川の里へ通じる唯一の橋で、この橋の正面が砦跡のある山である。 
----備考----
訪問年月日 2005年2月6日
主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他