右衛門塚
(えもんづか)

                   袋井市岡崎           


▲ 三浦義鎮一行七十余人の遺骸は村人によって、ここ沓掛原に運ばれ
て埋葬された。その塚を右衛門塚といい、ここの坂を右衛門坂という。

悲憤の最期

 永禄十一年(1568)暮れ、武田信玄によって今川氏真は駿府を追われ、遠江掛川城に逃げ込んだ。譜代の今川家臣の多くは武田に降り、氏真の頼みとするのは掛川城の朝比奈備中守泰朝のみとなっていたのである。まさに戦国大名今川氏崩壊のときであった。
 今川家臣三浦右衛門佐義鎮(よししげ)は主君氏真が掛川城に拠ったことを知り、一族一党七十余人を率いて掛川に向かった。多くの家臣が離反するするなかで義鎮はあくまで氏真に従い続けようとしたのである。
 そもそも義鎮は今川義元からその才知を買われ、氏真の代になってからはその寵を得て今川家中において重きをなしていた。伝えられるところによれば、義鎮の権威を笠に着たその傲慢さは今川の斜陽化を早めたとまで云われている。無論、これは一方的な見方で、今川家の崩壊は氏真自身の戦国大名としての資質に問題があったからであり、三浦義鎮にその責を負わせるのは酷というものであろう。それはともかくとして、義鎮のように才知弁才で立身した者と武者働き一筋で仕えてきた者との間に確執が生じるのは古今東西時代を問わずよく見受けられることである。
 この場合もそうであった。掛川城にたどり着いた義鎮一行は入城を断られたのである。
 城主朝比奈泰朝は武辺者として知られた武将で、義鎮とは駿府城内でも面をそむけてすれ違うほどの不仲であったのだ。
「主家存亡のときに、情けなや」
 義鎮は妻菊鶴の兄四ノ宮右近を頼って岡崎村へ向かうことにした。菊鶴は義元の妾であったが氏真のはからいで義鎮に嫁していたのである。四ノ宮右近は馬伏塚城の小笠原氏に仕えており、義鎮は小笠原家に生きる道を見出そうとしたのである。
 四ノ宮右近は快く義鎮一行を迎え入れてくれた。
 しかし、小笠原氏のとった態度は討手を差し向けるという非情なものであった。小笠原氏はすでに徳川家康に通じていたのである。
 最早これまでと悟った義鎮は討手の迫る前に妻と共に自害して果てた。悲憤の最期であったといえよう。さらに女子供を含めた一行七十余人も後を追って自害したと伝えられている。あるいは討手に殺戮されたのかもしれない。

▲ 「お供墓」と呼ばれる三浦一党七十余人の墓石。

▲ 横須賀城主大須賀康高は三浦夫妻の最期を憐れみ、その自害した四ノ宮右近の屋敷跡に宗有寺を建立した。宗有は義鎮の法号である。所在地図

 ▲ 宗有寺建立にともない沓掛原から境内に移された三浦夫妻の墓。右が義鎮、左が菊鶴の墓石である。
----備考----
画像の撮影時期*2007/01