百度屋敷
(ずんどやしき)

                   豊橋市花田町            


▲ 百度屋敷跡は工場や住宅地となって遺構は残されていないが、
土地の高低差からかつての城屋敷の有様がわずかながら推測できる。

百度兵衛と
       百度右衛門

 通称百度(ずんど)屋敷と呼ばれるこの城は羽田村古城とも呼ばれ、要害の地に築かれていた。
 「羽田村古城百度屋敷考」所載の屋敷図を見ると、城の北側と西側は沼や田の湿地帯となり、城の近くは池となって天然の水堀となっている。母屋のある本郭および南側と東側は低い丘となって堀が巡らされ、屋敷割りされている。
 永禄七年(1564)、徳川家康は三河一向一揆を鎮圧して東三河の平定に乗り出した。東三河における今川方の最大の拠点は吉田城である。この年、徳川勢は周辺の諸城砦を攻略しつつ吉田城に迫った。
 徳川勢の先手の大将は酒井忠次である。吉田城を包囲した忠次は長期戦に備えてここ百度屋敷に陣を構えたと言われている。
 屋敷の主(城主)は石原百度兵衛であった。この屋敷の築城の時期は文明年間(1469-86)と見られており、百度兵衛の父と思われる次郎兵衛の時にはすでに城があったとされている。
 石原次郎兵衛は文亀元年(1501)時点で東三河十七騎のひとりに数えられており、この地域の土豪としてそれなりの勢力を持っていたものと思われる。この当時以降、吉田城を中心とするこの地域は今川、牧野、戸田の三氏、時には松平氏も加わる争奪の場となり、小土豪に過ぎぬ十七騎の面々は変転する支配者のために苦労を重ね続けた。そのためか酒井忠次が吉田城から今川勢を退去させて城主となった時、彼らのほとんどが帰農したと言われている。
 そうしたなかで我が城屋敷を徳川の軍団長である酒井忠次に提供した石原百度兵衛は忠次に仕えて武士としての道を歩み続けた。元亀元年(1570)の姉川合戦で戦功を上げ、徳川家康の遠江進出によってであろうと思われるが、その後に掛川へ移ったと伝えられている。
 百度兵衛転出後の百度屋敷には竹谷松平清宗の重臣鋤柄(すけがら)百度右衛門が城主として入った。もちろん酒井忠次の意によるものであろう。百度右衛門も忠次の配下にあって活躍している。天正三年(1575)の長篠合戦では忠次を大将とする鳶ヶ巣山砦の奇襲隊に参加して一番に攻め進んだと伝えられている。
 慶長六年(1601)当時、百度右衛門は隠居して子の樫右衛門が屋敷を継いでいたものと見られている。天正十八年(1590)の家康の関東移封には従わず、羽田村に根を下ろしたことになろう。
 戦国の世を武士として生きた鋤柄氏であったが寛永の頃(1624-44)には帰農への道を歩み、百度屋敷も要害の城から農村の中核としての存在に変わった。
 ▲ 駐車場の向こう側の工場敷地は周辺より一段高くなっており、かつての本郭部分である。手前の駐車場は本郭の西側にあたり、かつては池であった。
▲ 工場(道の左側)の北側の道路。母屋の置かれた本郭内を貫通しているようである。

▲ 工場(道の左側)の南側の道路はかつての堀跡と思われ、古図では工場側に若党屋敷が置かれている。
----備考----
訪問年月日 2010年7月17日
主要参考資料 「羽田村古城百度屋敷考」他

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