柏原城
(かしわばらじょう)

                   蒲郡市柏原町          


▲ 柏原城は柏原鵜殿氏の居城跡として伝えられている。これは南側から
見た城跡である。山林、畑地となって城跡を示すものは何もない。

柏原鵜殿氏の古城

 天文の頃(1532-55)、今川氏の力を背景にして勢力を強めていた西郡(蒲郡市域)上ノ郷城主鵜殿長持は弟長祐を分家してここ柏原に移住させた。
 柏原鵜殿氏の始祖となった長祐の柏原築城は弘治年間(1555-58)のことと言われている。
 永禄三年(1560)、桶狭間合戦後に三河の様相は一変する。今川の人質として成長した松平元康(徳川家康)が今川を見限り、岡崎城に自立して三河平定を進めたのである。
 これに対して鵜殿本家の当主長照(長持の長男)は今川との縁を断ち切れずにいたため、永禄五年(1562)に元康勢によって上ノ郷城を攻められて城と共に滅ぼされてしまった。
 この合戦時、柏原の長祐は同族である下ノ郷城(蒲形城)の鵜殿氏とともに元康側に付いた。
 永禄六年(1563)に起きた三河一向一揆との戦いに長祐は家康(この年に改名)に従って活躍した。しかし、翌年正月十六日の針崎における戦いで不運にも討死してしまった。
 長祐には跡継ぎがなく、本家長照の弟長忠が養子となって継いだと言われている。しかし上ノ郷本家はこの時期すでに無く、長忠がどのような経緯で柏原鵜殿家の養子となったのかについてはよく分からない。
 さて、二代目柏原城主となった長忠は家康への忠誠を示すために娘を側室に入れたと言われている。彼女は西郡の方と呼ばれ、永禄八年(1565)に家康の次女督姫を産んだ。督姫ははじめ小田原城の北条氏直に嫁いだが、後に池田輝政の継室になった。
 長忠の子長次は督姫(良正院)の叔父ということで慶長十八年(1613)に池田家に仕えることになった。
 長次の仕えた池田家は鳥取藩三十二万石であり、鵜殿家は代々家老職を務め、因幡岩美五千石を領して明治に至った。
 現在、城址は竹林となって足を踏み入れることさえ難しい状況である。曲輪や土塁の一部が残ると言われているが詳細は不明である。

▲ 城址南側から竹林に踏み入ると平坦地が広がっている。
----備考----
訪問年月日 2010年10月16日
主要参考資料 「蒲郡の諸城」他

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