日和佐城
(ひわさじょう)

            徳島県海部郡美波町日和佐浦    


▲ 城山西側の入江越しに見た日和佐城址。山頂の天守
風建物は模擬的なもので史実とは関係ないものである。

風雲急なり、
      籠城の砦

 日和佐城が築かれたのは海部城(海陽町)と同じく土佐の長宗我部勢の侵攻に備えてのものであったようだ。時期的には永禄年間(1558-70)の後期頃であろうか。

 城主は日和佐肥前守と伝えられている。肥前守以前の日和佐氏については長享二年(1488)に日和佐掃部助廣康の名が見える程度でよく分からない。

 ともかく風雲急を告げる時代に遭遇した日和佐の領主肥前守は本格的な合戦に備えるために山城の改築に取り掛かった。それがこの日和佐城なのである。川と入江と海に囲まれたこの城はまさに天然の要害といえよう。残念ながら城砦としての遺構を確認することはできないが、山頂から平坦部を階段状に設け、櫓や柵、簡素な石塁などで構成されていたものと思われる。

 天正五年(1577)、土佐を平定した長宗我部元親は阿波進攻を開始して海部城を襲った。海部城はあえなく落城、香宗我部親泰が同城を拠点として阿波南部の諸城の攻略に乗り出し、日和佐城に迫った。

 肥前守は籠城の覚悟であったと思われるが、海上を圧する土佐の大軍を前にしては勝ち目のないことを認めざるを得なかったのであろう。戦わずして長宗我部の軍門に降ったのであった。

 肥前守の後を継いだ権正は、豊臣秀吉の四国征伐によって長宗我部氏が土佐一国に逼塞させられた後に香宗我部親泰に請われて土佐に移住した。名を濱五郎兵衛と改めた。

 関ヶ原合戦後、長宗我部氏は没落して土佐は山内一豊の封地となった。しばらくして濱五郎兵衛は阿波の大名となった蜂須賀家政に日和佐帰住を勧められ、先祖の地に戻った。

 五郎兵衛は士分として五十石を与えられ、奥河内の込潟と呼ばれる地に屋敷を構えた。肥前守の築いた城跡を見上げつつ余生を送った濱五郎兵衛こと日和佐権正は寛永十六年(1639)に没した。
 ▲ 城山山頂に建つこの城郭風建物は「日和佐勤労者野外活動施設」と呼ばれるものであるが、平成22年(2010)時点においては閉館状態であった。
▲ 左画像の新日和佐城前に遷宮された城山神社。城主日和佐肥前守が村人のためにと権現様をこの地に安置したことに始まるといわれる。

▲ 城山から大浜海岸方面の景色。
----備考----
訪問年月日 2010年1月3日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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