海部城
(かいふじょう)

                   徳島県海部郡海陽町鞆浦         


▲ 海部城址の城山を鞆浦漁港から望む。城山の最高所が
主曲輪で、左のアンテナ塔の建つ所が南の曲輪となる。

南阿波、前衛の城

 永禄十二年(1569)、隣国土佐では長宗我部元親が土佐東部の勇将安芸国虎を討取り、猛威を振るっていた。

 この頃、土佐との国境に近い海部郡の海部左近将監友光は長宗我部の猛威に備え、郡内の諸豪を束ねてこの海部城を築いた。それまでの海部氏の居城はここから海部川を約3kmほど遡った吉野城であったが、土佐勢の侵攻に備えてこの河口部に築城したものと思われる。

 元亀二年(1571)三月、海部城近くの那佐湾に長宗我部元親の弟島弥九郎親益の乗った船が停泊した。弥九郎は病気療養のために有馬温泉に向かおうと三十余人の家来とともに土佐を出帆したのであったが、強風のためにこの那佐湾に避難していたのであった。怪しい船が泊っているとの急報を受けた海部友光は手勢百余人を率いてその船を襲い、病床の島弥九郎以下悉くを討ち取ってしまったのであった。

 激怒した長宗我部元親は天正三年(1575)、五千の軍勢をもって阿土国境の宍喰城を攻め落とし、天正五年(1577)にはここ海部城に押し寄せてきた。

 海部友光以下、鉄砲の名手栗原伊賀右衛門らの活躍などで奮闘したが、衆寡敵せずついに落城してしまった。落城後、友光は紀州に逃れたというがその後のことは分からない。

 長宗我部元親は海部城に香宗我部親泰を置いて阿波進攻の拠点とした。親泰は引き続き兵を進めて日和佐城など海沿いの諸城を攻略した。

 天正十三年(1585)、四国をほぼ制圧した長宗我部元親は豊臣秀吉による全面攻撃を受けることになった。阿波には羽柴秀長、羽柴秀次の率いる六万の大軍が上陸、ほぼ一ヶ月の戦いで長宗我部勢は土佐に撤収して戦いは終わった。

 秀吉の四国征伐の結果、阿波は蜂須賀家政に与えられた。阿波の領主となった家政は家臣の中村右近大夫重勝に五千石と兵三百を与えて海部城の城番とした。長宗我部が土佐一国に封じ込められたとはいえ、国境の守りに手を抜くことはできなかった。中村重勝は城を修築して城下町を整え、御鉄砲の者八十人が配されたという。

 中村重勝の後、家老益田宮内一政が七千石で海部城番となった。一政の後は長男の豊後長行が継いだ。

 寛永十年(1633)、益田豊後事件が起こる。海部城番益田豊後長行は私腹を肥やすために郡内の木材を密売したり、また領民に重税を強いるなどして農民百人ほどが土佐に逃走するといった事態を招いていた。これを重く見た藩は豊後を捕縛、投獄してしまった。一説には、豊後は立藩を画策していたとも言われている。

 徳島藩も三代忠英の時代となって新しい支配体制を模索していた時期でもあり、この豊後投獄は古い門閥体制への鉄槌であったとの見方もある。

 一方、投獄された豊後の恨みは藩の不正を幕府に密告する形となって表れた。その内容は蜂須賀家の存続にもかかわるものであったが、正保二年(1645)の江戸表における幕府の裁定で豊後の偽りが確定、豊後は再び獄中に戻された。十三年に及ぶ益田豊後事件は江戸から阿波へ護送中に豊後本人が病死したことで終わった。資料によっては津田川口(徳島市)の刑場で斬罪に処せられたとある。

 寛永十五年(1638)、一国一城の制により海部城は廃城となり、城下に郡代役所が置かれた。寛永十七年(1640)には海部の押さえとして判形人三十七人が城下に移住した。判形人とは藩お墨付きの者ということで郷士身分であり、平時には漁に出、いざという時には藩命に従って軍事的活動を行ったものであろう。彼らはかつて森志摩守率いる阿波水軍の将士で、朝鮮の役や大坂の陣などで活躍したつわものたちなのである。

 文化四年(1807)、郡代役所が日和佐に移され、郡内の行政の中心は海部の街から離れた。

▲ 主曲輪方面(左側)と南の曲輪(右側)の間の切り通し。手すり柵や外灯が設置され
ているが、これは津波時の避難地としてこの城跡が指定されているためであろう。

 ▲ 海部中学校東側入口に建つ「海部城址」の碑。
▲ 城址北端の丘に設けられた森志摩守と判形人たちの墓。

▲ 判形人たちの墓のある丘から城山を望見。中腹の尾根筋が削平されて曲輪状になっている。

▲ 城址への登城口はこの津波避難路の矢印が目印となる。城山の東側の漁港前の住宅地内にある。

▲ 避難路矢印の方向に階段が設けられており、この先が切り通しとなっている。

▲ 南の曲輪跡には携帯電話用の無線中継所のアンテナ塔が建てられている。
----備考----
訪問年月日 2010年1月3日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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