勝幡城
(しょばたじょう)

市指定史跡

                   愛知県稲沢市平和町         


▲ 勝幡城跡には「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」の石碑が建つのみである。

織田弾正忠、
      飛躍の城

 織田信長が尾張を統一して天下に雄飛できたのは父信秀の尾張国内における勢力基盤があったからであり、その信秀の活躍もまた父信定の築いた勢力基盤があったからである。

 つまり織田家が天下に覇を唱えるに至った出発点の城がここ勝幡城なのである。

 築城者は信長の祖父弾正忠信定である。築城年は永正元年(1504)のことと言われている。

 信定は下四郡守護代である清洲織田家の一族で清洲三奉行の一人であった。もともと尾張西端の津島に屋敷を構えていたようである。木曽川下流の湊町として繁栄し続ける津島を支配することができるなら、そこから得る富をもとに大きく飛躍することができるのだ。戦国の時代を積極的に生きようとする信定の達見は並みの武将ではなかったことの証しである。そして、勝幡城の築城は信定が本格的に津島支配を推し進めるためのものであったといえる。

 当時、津島には四家・七党と呼ばれる南朝方の末裔たちが土着していた。信定は強圧と懐柔、硬軟両面から彼らを配下に取り込んでいった。

 永正九年(1512)、嫡男信秀が勝幡城で誕生した。信定の津島支配が不動のものとなったのは大永五年(1525)頃と言われており、この時に勝幡城を信秀に譲ったと言われている。

 信秀が城主となって間もなく信定が没したため、母いぬゐの方が後見したとも伝えられている。

 成人してからの信秀は強固な経済力をもとに勢力を拡大、天文元年(1532)には那古野城を奪い取って居城とした。勝幡城には城代を置いたという。

 天文三年(1534)、信長が勝幡城で誕生した。この年、信秀は古渡城を築いて移り、生後間もない信長に那古野城を与えたとされている。その後、信秀は三河や美濃へ出陣を繰り返して尾張を代表する武将となったことは周知の通りである。

 勝幡城がいつ頃まで維持されたのかは分からないが、信秀・信長による尾張平定の進展にともなってしだいに不要のものとなっていったと思われる。


「勝幡城址」の石碑。後ろの黄色の看板は「信長生誕を育む会」のものである

▲説明板。
 ▲ 日光川の堤防沿いに古城跡の石碑が建っている。文化財の史跡に指定されている。
▲ 嫁振橋から下流方向を眺める。かつて本丸のあった付近であるが、それを偲ばせる何物もない。

▲ 城址碑の近く、嫁振橋のたもとに表示されていた復元図。
----備考----
訪問年月日 2010年4月3日
主要参考資料 「日本城郭全集」

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