古渡城
(ふるわたりじょう)

                愛知県名古屋市中区下茶屋町       


▲ 織田信秀が末森城に移った後は田畑と化していたが元禄三年(1690)に東本願寺別院が
跡地に建立された。現在は古城跡であったことをしめす石碑だけが境内の片隅に建てられている。

油断も隙もなし

 尾張下四郡の守護代清洲織田大和守家の三奉行のひとりであった勝幡城主織田備後守信秀は美濃の斉藤道三及び駿遠三を支配する今川義元らの尾張への伸張を喰い止めるために、まさしく八面六臂の活躍を見せていた。守護斯波氏は名あるのみ、守護代家も力量に欠けるとあっては信秀がひとり尾張の独立を保っていたといってよいであろう。
 その信秀が目障りな今川の城であった那古野城を手に入れ、それを吉法師(信長)に譲ったのが天文四年(1535)であった。このとき信秀が新たに居城としたのが古渡城である。四方に二重の堀をめぐらしただけの平城であった。
 この後、信秀は今川勢力の進出を阻止するために刈谷城、安祥城を落として積極的に西三河へ勢力を伸ばした。天文十一年(1542)、矢作川の対岸小豆坂において信秀はわずか四千の兵で四万の今川勢を撃退している。
 天文十五年、那古野城の吉法師が後見役の平手政秀らに伴われ、ここ古渡城で元服した。これより吉法師は織田三郎信長と名乗ることになった。
 翌天文十六年、信秀は美濃の斉藤道三を攻めた。織田勢は稲葉山城下にまで迫り、近在を焼き払った。ここまではよかったのであるが兵を引き上げるときになって道三勢の反撃を受けて散々に打ち負かされてしまった。
 道三はこの勝利を機に信秀支配下の大垣城へ兵を進めた。
「あなどりおって」
 信秀は直ちに兵を出して道三勢を撤収させた。
 ところが信秀の留守中に清洲守護代家の坂井大膳、河尻与一らの清洲衆によって古渡城が襲われ、町が焼き払われたのである。
「油断も隙もないわ、情けなき輩どもかな」
 信秀の労苦をよそに内輪喧嘩、これが尾張の実情なのである。この現状を収めようと両者の仲介に奔走したのが信長の後見役平手政秀であった。
 政秀は清洲との和睦を成立させると美濃の道三とも和睦を取りつけ、道三の娘濃姫を信長の室に迎えることに成功した。
 この政秀の手腕によって信秀は腹背に敵を受けることなく今川への対応に専念できるようになった。
 この年、天文十七年、信秀は居城を末森に移し、古渡城は廃城となった。

▲ 東本願寺別院の本堂。昭和20年の空襲で焼失、同37年に再建された。
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画像の撮影時期*2006/04