安城城
(あんじょうじょう)

                   安城市安城町          


▲ 安城城本丸跡には大乗寺が建ち、その門前に城址碑が建てられ
ている。「安祥城」の表記は江戸期のものと言われており、戦国期
にのみ存在したこの城は地名からして「安城城」とすべきかもしれない。

激闘、安城合戦

 文明三年(1471)七月、笛、太鼓、鉦を打ち鳴らす一団が安城城の近くの西野で舞い踊っていた。物珍しさに周辺の人々が集まり、安城城の城兵七十余人もこの見物に城を空けて出向いた。
「頃はよし、今じゃっ」
 と武装した二百五十人の一隊が空になった安城城内に討ち入り、乗っ取ってしまった。
 この一隊の大将は岩津城主松平信光であった。踊りの集団を仕立てたのも信光の一計であったのだ。
 松平信光は松平宗家三代目とされる武将である。信光は三十三人の子に恵まれ、内二十七人が男子であったという。信光の勢力拡大によって得られた土地に子らが封ぜられ、竹谷(竹谷城)、形原(形原城)、大草、五井(五井城)、能見、長沢といった土地にそれぞれ城館を築いた。そして代を重ね、彼らの子孫によって強固な松平武士団が形成されることになる。信光はここ安城城にも三男といわれる親忠を城主として入れ置いた。
 ところで、信光の奇計にはめられて城を奪われてしまった城兵たちとその城主は誰であったのか。残念なことにそれを伝えるものがなく、分からないのである。一説には志貴荘(安城から大浜にかけての地域)の領主であったとされる和田氏の城であり、一族の畠山照久が城代となっていたと言われるが、確実なものではないそうだ。
 さて、安城城の新城主となった松平親忠は領民に慕われる慈悲深い領主であるとともに武将としても優れていたようだ。明応二年(1493)に起きた賀茂郡、碧海郡北部の領主(三宅、中条、阿部、鈴木、那須の各氏)ら三千余の連合軍との戦いで、親忠は千五百ほどの軍勢で果敢に迎え撃ち、井田野(岡崎市井田町)でこれを撃破した。この一連の戦いで松平宗家の岩津城が連合軍に落とされ、岡崎の松平氏も危ういところであったのだ。それが親忠の奮戦で松平の危機が救われたのである。親忠が松平一族の中心的な存在となった一戦であったといえる。
 明応五年(1496)、親忠は隠居して次男長親に安城城を譲り、文亀元年(1501)に病没、六十四歳であった。
 安城二代長親も子らを福釜、桜井、東条、藤井に分出させて志貴荘全域と吉良荘の一部を支配下に置いた。
 永正五年(1508)、伊勢盛時(早雲)に率いられた今川氏親の軍勢一万余が西三河に進攻、松平氏の本拠岩津城を攻囲した。岩津城主親長は五百の城兵で防戦したが落城も時間の問題と思われる頃、安城の長親、信忠父子は千二百余の寡兵ながら出陣を決意、矢作川を渡河して今川の大軍に襲いかかった。後方を衝かれた今川勢は陣を引き払い、吉田城(豊橋市)まで退却を余儀なくされた。戦場となったのは奇しくも先代親忠が領主連合軍を撃破した井田野であった。
 この一戦で長親は宗家としての地位を確立したといえよう。この年、長親は長男信忠に家督を譲って隠居した。とはいえ、三十九歳であったというから、その後も信忠の後見的な立場にあったと思われる。
 しかしながら信忠は無慈悲、薄情の主君と一族家臣団の反発を招き、大永二年(1522)に十三歳の嫡男清康に家督を譲って隠居に追い込まれた。
 四代城主となった清康は性仁慈にして武勇抜群と評され、わずか十数年のうちに、その英雄的な活躍によって三河平定をほぼ成し遂げたことで知られる。
 大永四年(1524)、家督を継いだばかりの清康は反抗的な岡崎松平氏(西郷氏)の支城である山中城を攻め取った。続いて岡崎に兵を進めて明大寺城(岡崎松平氏の居城)を接収してしまったのである。
 清康は明大寺城の北に新城(現・岡崎城)を築いて安城城から移った。交通の要所であり、地形的にも要害の地であったからである。

▲ 現在の安城城址に遺構はほとんど無いが、本丸跡南側にのみ切岸の様子が見られる。
 清康が矢作川の東岸に移ったということは、この時すでに尾張の織田氏を仮想敵としていたのであろうか。
 清康転出後の安城城には清康の祖父長親の弟長家が城を預かったようだ。
 天文四年(1535)、尾張出陣の清康が守山の陣中で家臣の一人に刺され、落命した。二十五歳であった。世に言う守山崩れである。その後、松平諸家及び家臣らは親織田派と反織田派に分かれる事態となる。
 天文九年(1540)二月、今川氏の後援を得て岡崎城主となった清康の嫡男広忠は織田方の鳴海城を攻めたが失敗に終わった。織田勢の反撃は必至であったから安城城の防備が急がれたことは言うまでもない。安城城の縄張が拡張整備されたのもこの時期であったようだ。
 六月、安城城は織田信秀率いる三千の軍勢に攻められた。安城城には松平信康、同康忠らが援将となったものの軍勢は千ほどであったという。城将松平長家は城外決戦に挑み、善戦したものの長家以下信康、康忠をはじめ多くの将士が戦場に斃れ、安城城は織田方の城となった。
 その後は、岡崎の松平広忠は今川氏の後援によってかろうじて存立しているに過ぎず、安城城を得た織田氏は今川氏との抗争へと踏み込んで行くことになる。小豆坂の合戦がそれである。
 同時に松平氏内部においても広忠を見限り、織田方に付く者も出た。松平忠倫、松平信孝らがそうである。とくに信孝は安城城の北東に山崎城を築いて広忠に対抗した。
 天文十四年(1545)九月、松平広忠が家臣らの諌止を振り切って安城城奪回の挙に出た。しかし、城攻めはおろか、安城城外で織田勢の挟み撃ちに合い、完敗であった。広忠は清田畷と呼ばれる所で本多忠豊の奮戦討死によってかろうじて岡崎に戻ることができたという有様であった。
 天文十八年(1549)、広忠が家臣の手によって落命した。慌てたのは今川氏である。今川義元は岡崎が織田の手に渡らぬうちにと太原雪斎率いる二万余の大軍を進発させ、安城城を攻囲した。城兵は八百、松平勢が矢面に立って戦ったことは言うまでもない。城主織田信広は降伏して生け捕られ、織田の手に奪われていた竹千代(家康)と交換された。
 今川方の城となった安城城には今川配下遠江の武将天野景貫、井伊直盛が守将として入った。
 永禄三年(1560)、桶狭間合戦によって今川義元が敗死、三河の情勢は大きく変わることになった。駿府で成人した松平元康(家康)が今川を見限り、岡崎城に入って独立したのである。
 翌年、元康が織田信長と同盟を結んだことにより、安城城は無用の存在となり、廃されたようである。
 ▲ 安祥山大乗寺の山門。かつての本丸跡である。
▲ 大乗寺前の広場に再現された土塁。

▲ 本丸(一の曲輪)と二の丸(二の曲輪)の間はかつての堀跡であり、現在は庭園風に造園されている。

▲ 天文18年(1549)の安城城奪回の戦いで松平勢は今川勢の先陣を切って戦った。これはその戦いで城主織田信広を本丸近くまで追い詰め、敵の矢を受けて討死した本多忠高の墓碑である。本丸跡に建つ大乗寺境内にある。

▲ 天文13年(1544)9月、織田勢との攻防戦でひとり敵中に打って出、奮戦した安祥村の法師善恵坊の供養碑。

▲ 「姫塚」。安城城の攻防戦で亡くなった女性を葬ったと伝えられている。

▲ 二の曲輪跡は八幡社の境内地となっている。由緒略記によれば文明11年(1479)に松平親忠が鎮守の神として城中に八幡宮を創建したとある。

▲ 城跡の西側に隣接して建てられた「安城市歴史博物館」。

▲ 安城市歴史博物館一階吹抜け部分の壁に置かれた「松平清康公之像」が訪問者を誘っていた。
----備考----
訪問年月日 2010年8月13日
主要参考資料 「安祥城物語」
「安城松平一族」他

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