五井城
(ごいじょう)

                   蒲郡市五井町          


▲ 五井城跡の北側の堀跡といわれる御宮池。現在、城址は畑地、宅地となって遺構は見られない。

忠勇、五井松平

 五井の地には文治年間(1185-90)に新宮蔵人行家が居城していたと伝えられている。行家は平家追討の以仁王の令旨を各地の源氏に伝え歩いたことで知られているが、どのような経緯でここ五井に城館を構えたのかは不明である。
 その後、行家有縁の者が代々この地に住み続けていたようで、藤重郎行光の時、永正二年(1505)三月に松平元芳によって攻め取られたと伝えられている。無論、今となっては真偽のほどは分からない。
 さて五井を攻め取ったとされる松平元芳である。元芳はこの地域(蒲郡市)に居城を構えた竹谷松平守家(竹谷城)や形原松平興副(形原城)と同じく松平信光を父とする兄弟であり、七男であった。
 元芳は文明十七年(1485)に没したとされるから、先の永正二年略取説は年代が合わず、もっと先の出来事ではなかったかと思われる。
 二代元心(もとむね)は松平宗家五代長親の命を受けて深溝(額田郡幸田町)の土豪大場二郎左衛門を討ち、その所領を弟の忠定に譲った。忠定の子孫は代々深溝城を居城としたため、忠定は深溝松平氏の祖となった。
 三代信長は浪々する松平広忠(家康の父)に随従して労苦を共にした。
 四代忠次は安城をめぐる織田勢との戦いに活躍した。天文十六年(1547)、渡河原(岡崎市渡町)にて織田方についた山崎城の松平信孝勢との戦いで討死にした。
 五代景忠は永禄三年(1560)の丸根砦攻め、永禄十一年(1568)遠江進攻、元亀元年(1570)姉川合戦、元亀三年(1572)三方原合戦に参陣した。
 天正三年(1575)の長篠合戦では長篠城主となった奥平貞昌の加番として子伊昌と共に同城に入り、籠城戦を戦い抜いた。天正十二年(1584)の長久手合戦でも池田恒興勢と戦っており、その生涯は家康とともに戦場にあったといえる。文禄二年(1593)没。
 五井松平氏は天正十八年(1590)の家康関東移封に従い、六代伊昌は下総印旛郡に二千石を拝領して五井の地を去った。七代忠実は六千石に加増され、子孫は旗本として明治に至った。
 五井城時代の当家は一貫して松平宗家に臣従を貫き、家康の代にはその覇業を常に支え続けた忠勇一筋の一族であったといえよう。

▲ 五井松平氏の菩提寺である長泉寺の山門。五井城の城門を移築したものと伝わる。長泉寺は二代元心(長勝)が永正五年(1508)に菩提寺と定めて再興した。
 ▲ 城址とされる地域は畑地、宅地となって城跡の面影はない。
▲ 真清寺の山門も五井城の移築門と言われている。訪城時は倒壊寸前の状態にあり、倒壊防止の補強材が打ち付けられていた。

▲ 長泉寺境内の五井松平氏の墓。
----備考----
訪問年月日 2010年8月1日
再訪年月日  2010年10月16日 
主要参考資料 「蒲郡の諸城」
「松平の族葉・十四松平」他

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