長篠城
(ながしのじょう)

国指定史跡、百名城

         新城市長篠        


▲ 本丸入口の城址碑。

長篠籠城戦

 作手郷菅沼とその周辺に勢力を拡張して三河菅沼氏の祖となったのが菅沼定直(さだなお/長篠菅沼家譜)である。その後、長篠へ進出してきたのが岩古屋城(設楽町田口)に居た次男満成(みつなり)であった。満成は土豪長篠氏を排除してそこ(大通寺山)を根城とした。山家三方衆のひとり長篠菅沼氏のはじまりである。

 満成の次代元成(もとなり)は遠江から三河へ進出しつつあった駿河の今川氏に属して新たに城を築いた。それがこの長篠城である。永正五年(1508)のことであった。

 それから時が過ぎて永禄三年(1560)、桶狭間で今川義元が織田信長に討たれると、長篠菅沼氏は、それを機に独立した徳川家康に仕えた。五代目貞景(さだかげ)のときである。貞景は家康に従って遠江掛川城攻めに加わったが、天王山(掛川古城)の戦いで討死してしまった。子の正貞(まささだ)も家康に仕えて掛川城攻めに加わり金丸山砦で戦っている。

 しかし元亀二年(1571)春、武田信玄による三河進攻があり、山家三方衆(長篠の菅沼正貞、田峯の菅沼定忠、作手の奥平貞能)は人質を出してこれに従うことになった。正貞側からは二人の男子(浅井半兵衛の息小三郎、荒尾(岩古屋城か)の菅沼満直の息八左衛門)が人質として出された。正貞はこの翌年の三方原合戦では武田の将山県昌景隊に属して徳川勢と戦った。

 この時代、一族一党の浮沈と生命の存続は惣領の舵取り如何にかかっている。殊に大勢力の間にあっては離反に次ぐ離反を繰り返し、難しい舵取りを余儀なくされるのだ。

 三方原合戦の翌年である天正元年(1573)春、武田信玄死すの噂が広まった。家康は直ちに山家三方衆にたいする工作を進めた。三方衆のうち奥平氏が徳川方への帰順を約した。正貞とて武田へのこだわりはなかった。

 七月、家康は長篠城を囲み、徳川勢は久間山、中山、有海原などに布陣した。

 正貞は城内無勢を装い、激しく抵抗することはしなかった。八月中旬、強風の日に徳川勢による火矢によって城の建造物の大半が炎上した。正貞は籠城をやめて鳳来寺方面に退去したのである。

 武田方は武田信豊を大将とする一万余の軍勢が黒瀬(塩平城)に本陣を置いた。長篠方面には馬場信房が二ツ山(長篠城の北東約3`)に進出して布陣した。しかし、この頃には長篠城は落城していたものと思われる。

 そこで武田側では城を退去した正貞が徳川に通じているものとみて信州小諸に幽閉してしまったのである。

 後日談になるが、正貞は牢死して夫人が牢内で男子を産んだ。この男子が後の半兵衛正勝である。正勝は天正十年の武田滅亡後に家康に拝謁して田口(設楽町田口)に五百石の采地を与えられた。後に徳川頼宣に従って紀州に移り、子孫は紀伊藩城代として明治を迎えている。

 長篠城を手中にした家康は城番として奥平九八郎貞昌(21歳)を任じ、二百五十人の城兵を置いた。

 貞昌は父貞能とともに長篠落城後、家康との約束にしたがって一族家臣を引き連れて居城の亀山城を退去、父貞能は百余人を率いて浜松に移って家康の直参となっていた。

 天正三年三月、貞昌は城主となり、松平景忠(五井城主)、松平親俊(福釜城主)が加番となった。城兵は五百余人に増やされた。主だった面々は奥平修理定良、奥平但馬勝正、奥平与兵衛定次、奥平治左衛門勝吉、奥平土佐貞友、松平弥三郎伊正、生田四郎兵衛勝重、山崎善兵衛信宗、今泉内記重俊らで大半が二十代の若者であった。

 五月、武田勝頼が一万五千の大軍で長篠城を囲んだ。本陣を医王寺山に置き、大通寺山(武田信豊、武田信廉)、篠場野(穴山信君、一条信竜、小山田昌行)、鳶ヶ巣山(武田兵庫信実)などに陣場が築かれて兵が配された。

 戦いは八日から連日続いた。諸書によって多少の違いはあるが総合すると次のようになろうか。

 十日、大手門をめぐる戦闘。十一日、寒狭川を筏で渡って来た武田勢と野牛郭辺りで戦闘。十二日、本丸西隅に横穴を掘って城内に侵入しようとした武田勢と戦闘。十三日、瓢郭で兵糧を奪いに寄せた武田勢と戦闘。

 城兵は以上のすべての戦闘において武田勢を撃退して懸命に城を守った。

 十四日、武田勢はこの日の総攻撃をもって長篠城への積極攻撃をやめ、長期持久戦の構えに移った。

 城内では十四日の夜半に軍議が開かれ、戦況の報告と援軍の動向を知るために鈴木金七郎と雑兵の鳥居強右衛門の二人を岡崎に向けて発たせた(「長篠日記」他書は強右衛門一人で発ったことになっている)。城兵の士気は援軍の動向にかかっているのだ。二人は水練の達者で、闇にまぎれて川を泳いで武田の警戒網を潜り抜けた。

 夜明け、城の西方カンボウ山で脱出成功の狼煙を上げた強右衛門は岡崎に至り、家康に城内の様子を伝えた。ちょうどこの日は織田信長が軍勢を率いて岡崎に来ていたのである。

 強右衛門は再び長篠城へ向かって走った。援軍到来の報を一刻も早く報せたかったのである。

 しかし、武田方の警戒は厳しく、城近くの篠場野で強右衛門は捕らえられてしまった。武田方は強右衛門に「援軍来たらず、はやく降伏せよ」と城内に向かって叫ぶように強要した。

 ところが城近くの柵際に連行された強右衛門は、
「信長公当地へ二、三日中に着かせ給うぞ、立派に城を守り給え、今生の名残是迄なり」
 と叫んだのであった。

 云うまでもなく強右衛門は即日、城内から見える有海原で磔となった。

 この強右衛門の働きによってその子孫は貞昌の四男忠明(ただあきら松平姓)に仕え、代々松平家の家臣として明治を迎えた。最後の藩士となった鳥居家十三代商次は武蔵国忍藩十万石松平忠誠(ただざね)の家臣で五百石を知行した。

 さて、強右衛門の命を張った絶叫によって城兵の士気はいやがうえにも上がったに違いない。

 織田信長と徳川家康の連合軍が設楽原に布陣したのが十八日である。武田勢の主力が設楽原方面に動いたのは二十日であった。

 その翌日、史上名高い長篠の戦いが設楽原に於いて繰り広げられた。この戦いは大量の鉄砲を投入した織田・徳川連合軍が武田の騎馬隊を撃ち破った戦いであり、名だたる重臣の多くを失った武田氏衰亡の序曲となった戦いでもあった。

 武田勢を駆逐した信長と家康は長篠城外有海原で奥平貞昌以下一族七人と家老五人を招き、盃をもって籠城の戦いをねぎらった。そして磔にされている強右衛門を見て、「誠に忠義の士なり」と懇ろに法事を営むように云ったという。

 後日、貞昌は信長の偏諱を賜り、信昌と改めた。所領も作手、田峯などが加増された。その後、奥平家は豊前中津十万石の大名として明治を迎えることになる。

 長篠合戦の翌年、信昌は新城(新城市)に築城して長篠城を去った。

 長篠城は戦いの城ではあったが、治世の城には成り得なかった。

寒狭川(左)と宇連川(右)の合流する渡合から眺めた城址。この両川が天然の要害を成している。

▲土塁のすぐそばを通るJR飯田線。
 ▲ 本丸北側に残る土塁跡。
▲ 本丸跡。五月の長篠祭りでは火縄銃の実演が見られる。

▲ 本丸跡土塁上に建てられた城址碑。

▲ 野牛郭跡。五月十一日の激戦地である。

▲ 鳥居強右衛門磔死之碑。城址南西の寒狭川対岸に建てられている。

▲ 本丸跡には米国テキサス州サンアントニオ市のアラモ砦跡から贈られた樫の木が植えられている。アラモ砦の戦いと長篠城の戦いが似ていることから親善の交流となったものである。



----備考----
訪問年月日 2006年11月12日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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