医王寺山砦
(いおうじやまとりで)

                   新城市長篠            


▲ 南側から見た医王寺山砦の全景。禅刹長篠山医王寺の裏山になる。

打倒信長、
         御旗・楯無しの誓い

 天正三年(1575)四月下旬、武田勝頼率いる甲信の軍勢一万五千が三河路を南下して牛窪、仁連木、吉田(豊橋市)を焼き、五月一日には長篠城を囲んだ。
「さあ、出て来い信長、家康よ」
 総大将武田勝頼は武田信友、武田信光、望月信雅以下三千の兵でここ医王寺山に布陣、本営とした。長篠城を血祭りに上げることで織田信長と徳川家康は必ず出てくると踏んだのである。
 この前の年、勝頼は信玄亡き後の武田軍団を率いて東美濃(岩村城)に駒を進め、明知城などを攻略した。さらに遠江に転じて要衝高天神城を攻め落として武田の健在ぶりを天下に知らしめ、この勢いで信長・家康と雌雄を決せんものとこの三河出陣となったのである。
 ところが意外にも長篠城の防備は堅く、武田勢は兵力の消耗を抑えるために持久包囲戦へと戦術を転換した。長篠城が健在のまま織田・徳川勢と戦うとなれば腹背に敵を受けることにる。そんな一抹の不安があったが勝頼の決心は固かった。
 医王寺山に勝頼が布陣して半月後の十四日、織田信長が動いた。その軍勢三万と云われている。十五日、岡崎城で徳川家康の軍勢八千と合体。十六日、牛久保、十七日には野田に着陣した。そして十八日、設楽原に堂々の陣を張った。この時、信長が鉄砲三千挺を用意したことは有名である。
 十九日、ここ医王寺山に武田の宿将が集まって軍議が開かれた。
「急ぎ岩代川(寒狭川)を越、一戦に責崩せ(「長篠日記」)」
 と勝頼は決戦の意向を諸将に示した。
 しかし敵の兵力は味方の倍以上である。
「ここは甲州へ戻り、追ってくれば信濃国内に引き入れて戦い討ち取るべし」
 と信玄以来の重臣内藤修理、山県三郎兵衛、馬場美濃守、小山田兵衛尉、原隼人らが決戦に反対した。
 勝頼の側近長坂長閑がこれに反駁する。
「新羅三郎公より二十七代、敵を見て引込み給う事なし。勝頼公の代に至りて一戦もなく引込み給うとは如何に」
 勝頼も長閑の意見にうなずいた。
「されば」
 と馬場美濃守が、
「長篠城を無理押しして攻落とし、城内に本陣を構え、長陣すれば信長耐えられずに引き退き申すべし」
 と長篠城強襲策を述べた。
「美濃守殿の分別は甘い。信長ほどの大将が簡単に引上げるものか。反対に攻め寄せられたなら何とする。敵に仕掛けられて戦うも、われより進んで戦うも同じ事なり」
 と長坂長閑はあくまで設楽原進出を主張した。
 勝頼は、
「長閑が申す所、一々もっもなり。御旗・楯無しに誓い、明日の決戦に臨むべし」
 と下知したのであった。

▲ 医王寺本堂前に建つ「武田勝頼公本陣跡」の碑。
 御旗は八幡太郎義家の旗、楯無しは新羅三郎義光の具足で、いずれも武田家の宝器である。これに誓えばもはや覆すことはできないのである。
「是非もなし」
 馬場、山県、内藤らの重臣たちも覚悟を決めてそれぞれの陣所に戻り、設楽原進出の準備に取り掛かった。
 二十日未明、勝頼は医王寺山砦の陣を払って清井田原(新城市八束穂)に駒を進めた。戦国史上に名高い長篠の戦い設楽原合戦の始まる一日前のことであった。
 ▲ 砦跡への登山口(地図表示参照)。
▲ 東曲輪と本曲輪を結ぶ土橋。

▲ 本曲輪跡に建てられた物見台風の展望台。

▲ 本曲輪跡。短期的な陣所であるが本営とされただけあって帯曲輪、土橋、切岸などの防御遺構が見られる。

▲ 医王寺山門前にも「武田勝頼公本陣地」の碑が建っている。

▲ 山門前の弥陀の池と片葉葦の歌碑。設楽原出撃を諌めたこの池の葦が勝頼の勘気にふれて切りつけられ、片葉となったという。
----備考----
画像の撮影時期*2009/03

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