大通寺山砦
(だいつうじやまとりで)

                   新城市長篠            


▲ 禅刹大通寺(正面の建物)の裏山が大通寺山砦跡である。

訣別の水杯

 天正三年(1575)五月初め、武田勝頼は一万五千の軍勢を率いて東三河へ進攻、徳川方の奥平貞昌の守る長篠城を囲んだ。ここ大通寺山砦には武田信豊、馬場信房、小山田昌行らを将とする二千の軍勢が陣取った。長篠城の搦手を押さえる位置にある。そして武田包囲陣のなかでも最も長篠城に接近していた。
 長篠城はもとは菅沼氏の拠った城である。その菅沼氏が進出してくる以前(十五世紀後半)、この地には長篠氏が居た。菅沼氏はその長篠氏を追って領主となった。この大通寺山はその長篠氏の居城跡とされている。言うならば長篠古城とも呼べる城砦跡なのである。
 話しを天正三年五月に戻そう。長篠城を囲んだ武田勢は当初積極的に城攻めを行ったが、城の守りは意外に堅く、七日間攻め続けて五月十四日以降は長囲持久へと戦術を転換した。
 この日、織田信長が三万の大軍を率いて熱田(名古屋市)を出陣した。岡崎で徳川家康の軍勢八千と合流して十八日には設楽原に到着、馬防柵を築くなどして滞陣の構えを見せた。
 十九日、武田勝頼の本営医王寺山砦における軍議で馬場信房ら信玄以来の重臣の反対意見が退けられて設楽原出撃が決定された。
 劣勢をかえりみず、決戦に走ろうとする勝頼の胸中にあるものは何であったのだろうか。父信玄を超えんとする焦りが設楽原へと向かわせたのかもしれない。
 一たび出撃と決したからにはいかに重臣宿将といえども、
「是非無し」
 と従うほかないのだ。
 軍議が終わると諸将は出撃に備えるために持場に戻った。
 馬場信房も持場の大通寺山砦に戻ったが、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次といった同志の将を伴っていた。信房は砦に湧き出る泉の水を馬柄杓で汲み、内藤、山県、土屋らと水杯を交わした。
「武田の家運もこれまでなり、明日は一命を賭して戦うのみ、この一戦がわれらの最期となろう」
 と名残の涙を流して別れたと伝えられている。
 翌二十日、武田勢は設楽原東方に進出して布陣した。
 二十一日、武田勢は設楽原の織田・徳川勢に向かって一斉に攻めかかった。長篠設楽原の戦いがこれである。周知のように武田勢は織田・徳川の用意した大量の鉄砲の前に崩れるようにして斃れ、大敗した。
 武田勝頼はかろうじて戦場を離脱することができたが、水杯を交わした馬場、内藤、山県、土屋らは討死して果てた。

▲ 大通寺山砦跡の平坦部には説明板が立てられている。
 ▲ 大通寺の墓地裏手に登山口がある。登り口には「町ごと屋根のない博物館」の案内板が立っている。
▲ 大通寺裏の「杯井」。馬場信房ら重臣たちが出撃前夜にこの泉の水で盃を交わし、名残を惜しんだ。

▲ 「杯井歌碑」。明治十三年(1880)、名古屋鎮台参謀長山川浩大佐の詠んだものである。「これまでと汲みかはしたる盃のみずもみにしむ長篠の里」と刻まれている。
----備考----
画像の撮影時期*2009/03

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