亀山城
(かめやまじょう)

                   新城市作手清岳          


▲ 亀山城本丸に建てられた城址碑。かつて、ここ本丸には奥平氏の
居館が建ち、三河奥平百五十年の歴史を支え続けていたのである。

戦国奥平氏の本城

 ここ亀山城は東三河の山間部において大きく発展した奥平氏が戦国時代を生き抜いた居城である。
 三河奥平氏の初代貞俊がここ作手郷に移住したのは天授年間(1375〜81)のことであった。移住以前、そして移住後の貞俊のことは「川尻城」の頁で簡単にたどっておいたのでそちらを見ていただきたい。
 さて応永三十一年(1424)、川尻城を築いて奥平家興隆の一歩を踏み出した貞俊である。齢七十五の老翁であったが、移住後の徳によって郷村における信望は厚かった。それに加えて嫡男貞久の武将としての成長は著しく、しだいに近隣の村々を支配下に収めていったのである。
 亀山城の築城時期は明確ではないが、川尻城を築く段階ですでに城地としての構想は抱いていたと思われる。作手盆地全体を掌握するには川尻、亀山の両城の存在が不可欠であろうと思われるからである。無論、城の立地や規模から見れば、ここ亀山城が本城として相応しいことは云うまでもない。
 亀山城築城当時、貞俊の嫡男貞久は三十歳前後であり、その旺盛な行動力で作手三十六ヶ村と額田郡、宝飯郡の一部を領するまでに勢力を広めた。史料には今川氏親に従って戦功を上げ、信望が高まったとあるが、これは年次的に無理があるように思われる。駿河の今川氏親による三河進攻は文亀元年(1501)以降であり、貞久の没年は文明七年(1475)であるからだ。
 今川氏に属するようになったのは三代目貞昌からである。永正十一年(1514)三月、斯波義達の立て籠もる遠江三嶽城を今川勢が攻め落としているが、貞昌も今川方に加わって戦功を上げ、戦後に三嶽城の在番を任せられている。
 享禄三年(1530)当時、西三河の岡崎城の松平清康の勢威はすさまじく、東三河の諸氏もこれに従うようになっていた。貞昌も松平家に積極的に協力した。この年、松平清康は従属を拒み続ける熊谷備中守直盛の宇利城を攻め落とした。この戦いに貞昌は八十歳という老齢にもかかわらず、嫡子貞勝(十九歳)とともに加わり、大いに働いた。天文四年(1535)、貞昌、没。
 貞昌の後、当主となった若い貞勝には大きな試練が待ち受けていた。天文六年(1537)、叔父である石橋弾正久勝が本家乗っ取りを企てていたのである。貞勝は先手を打って弾正の屋敷(石橋城)を襲わせ、弾正以下四十二人を討ち取って事無きを得た。
 その後駿河、遠江の戦国大名今川義元の勢威が高まると三河の諸氏も今川に従うようになり、貞勝もそうしている。天文十一年(1542)の小豆坂の戦いでは今川方として織田信秀の軍勢と戦っている。
 ところが、弘治二年(1556)に貞勝は織田に通じて今川から離れようとしている。その結果引き起こされたのが雨山合戦であり、布里合戦であったのだ。雨山合戦では嫡男貞能(二十歳)が援将として雨山砦に入り、今川方と戦っている。
 しかし貞勝は再び今川方に戻っている。この時点での今川の勢威は衰えるどころか、尾張をも窺う勢いであった。貞勝は、時期尚早であったと悔いたのか、今川離反の首謀者であった日近定直を討って今川に帰参したのである。今川としても奥平を敵にまわすよりも帰参を許した方が得策であったのであろう。

▲ 本丸西南側の土塁と虎口。
 永禄三年(1560)、桶狭間で今川義元が織田信長勢との戦いで討死してしまった。この戦いには貞勝の嫡男貞能が松平元康の与力として参陣していた。戦後、義元の敗死と松平元康の独立によって三河の国人は次々と今川を離反していった。義元の後を継いだ氏真は貞能に対し感状などを多発して離反を止まらせようとしていたが永禄七年(1564)に至り、ついに貞能も今川を見限って松平に付いた。
 永禄十一年(1568)、徳川家康は遠江に進攻、今川氏真を掛川城に囲み、この翌年ついに氏真を追放せしめた。以後、遠江・三河においては徳川と武田の熾烈な抗争の時代に突入することになる。
 武田方は南信濃から東三河に向かって積極的に軍勢を進出させて勢力の拡大をはじめた。まず田峯城長篠城の菅沼氏が武田に降り、次いで貞能のもとにも武田の使者がやって来た。家臣一党衆議の結果、貞能の父貞勝の言を容れて武田に付くことになった。無論、貞能の本意ではなかったが、わずか二百の手勢では自滅の道以外になかった。
「時節を待つべし」
 の父の言に従うほかなかったのである。貞能は次男仙丸と家臣日近貞友の娘於フウを人質に出して武田に従ったのである。
 元亀三年(1572)、武田信玄は遠江を席捲して三方原合戦で家康を敗走させ、さらに三河に進攻して野田城を落とした。元亀四年春のことである。ところが、その後すぐに信玄死去の噂が流れた。家康はその真偽を確かめるために長篠城を攻め取った。
 そして家康は亀山城の貞能に帰参を促したのである。信玄死去を確信してのことであったろう。無論、貞能に迷いのあろうはずはなかった。しかし亀山城の周辺には武田方が城砦を築いて駐留しているからその行動は慎重に運ばなければならない。
 こうした家康の動きに対して武田側は武田信豊が大将となって長篠城の北(約7`)の玖老勢に本営を置いていた。元亀四年八月、信豊は貞能に二心のないことを確かめるために本営に呼び出した。貞能は家臣十人ほどを連れて信豊の本営に出向き、何事もなかったように装い、悠然として信豊と碁を囲むなどして帰路についたという。
 ▲ 本丸への登城路。腰曲輪の間を登って行く。
▲ 本丸入口の土橋の北側にも曲輪状の削平地が残っている。

▲ 本丸入口の土橋跡。その右側は西曲輪と呼ばれている。
 ▲ 本丸南側の土塁。
▲ 本丸跡。

▲ 本丸東側に一段低く設けられた二の丸。
 貞能が作手の亀山城に戻ると、武田方の駐屯する古宮城から監視の士が城内に派遣されていた。そして、翌朝に人質を出すように通告されたのである。貞能は帰参決行の時と判断した。
「今宵、この城を去り、徳川殿のもとへと向かう。その方は城内の者達をまとめて後より参れ」
 と貞能は嫡男貞昌(信昌)を呼んで、帰参決行を伝えた。それは百五十年にわたり奥平家の繁栄を支えてきた城との決別でもあった。
 貞能は妻子、家人を連れて密かに城を脱し、額田郡との境である石堂ヶ根という峠で貞昌らを待った。
 その貞昌は祖父貞勝や叔父らを説得して共に退去しようとしていたのであるが、貞勝は激怒して追手まで出すほどであった。いよいよ城内も騒然となり、古宮城の武田方の動きも気に掛かるので、貞昌は他の親族を連れて城を脱した。これを追うように貞能に従う士卒百余人も城を脱し、小宮城の武田方に向かって鉄砲を放って威嚇した後、全員が石堂ヶ根で合流した。
 貞能は石堂ヶ根を出発して宮崎村の滝山城(岡崎市宮崎)に入り、徳川の援軍の来るのを待った。
 八月二十一日、追手の武田勢が滝山城に押寄せて来たが貞能らはこれを撃退、さらに追い駆けて田原坂(岡崎市石原町)でも武田勢と戦った。午後になって徳川勢が到着し、さらに進んで古宮城などの武田方を駆逐してしまった。
 この後、貞能は一族家臣二百五十二人を貞昌に譲り、自らは百余人を率いて浜松城の家康のもとに移った。武田に送った人質(仙丸、於フウ、他)は無残にも武田方によって処刑された。
 九月、貞昌は長篠城在番となり、徳川の前衛として武田方との熾烈な戦いに臨むことになる。天正三年(1575)、正式に長篠城主となって武田勝頼の軍勢の攻撃に耐えた。これが長篠合戦である。戦後、織田信長の一字を与えられて信昌と名乗った。
 その後、信昌は新城城を築いて城主となった。そして天正十八年(1590)の家康関東移封に従って関東に移った。子孫は宇都宮藩主などを経て、豊後中津十万石の大名となって明治を迎えた。
 ちなみに貞能らの徳川帰参に激怒した貞勝は武田とともに甲州へ移り、武田滅亡後は密かに三河に戻り、滝山城に隠れ住んだ。没年は文禄四年(1595)で八十四歳であったという。
 慶長七年(1602)、信昌の四男松平忠明が作手一万七千石の藩主として亀山城に入った。しかし同十五年には伊勢亀山に移封となり、廃藩となった。
 亀山城の役目もこれで終わり、廃城となった。
 ▲ 北側から見た亀山城址。
▲ 本丸跡から文殊山城跡(中央最高所)を望見。亀山城址の北西にあたる。

▲ 本丸跡から塞之神城跡(中央山頂)を望見。亀山城址の北にあたる。
----備考----
画像の撮影時期*2008/04

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