雨山合戦地
(あめやまかっせんち)

                   岡崎市雨山町           


▲ 現在、雨山地区には雨山ダムが建設されるなどして合戦当時の面影は
消えつつあるようだ。この風景はダム上から見た雨山合戦の跡である。

先駆け無残、
       勇将雨山に散る

 弘治二年(1556)、今川義元は東三河の諸将に織田方に寝返った田峯の菅沼氏と作手の奥平氏の討伐を命じた。八月四日、野田城主菅沼新八郎定村はその先鋒となって家中一党を率いて出陣した。目標は風吹峠(野田城の西6.5`新城市と岡崎市の境)を超えた先、雨山の領主阿知波修理定直と五郎右衛門兄弟の立て籠もる雨山砦である。
 阿知波定直の父定基は奥平貞昌の女婿であったから阿知波氏と奥平氏は縁戚関係にあった。この時期の奥平当主貞勝は今川氏から離れて織田氏に通じていた。その関係で阿知波定直は織田方の前衛として今川方の来襲に備えていたのである。一説に定直は山本勘助から築城術を学んだとも云われており、それが砦の構築に生かされていたのかもしれない。残念ながら現在その遺構は見出すことはできない。
 ともかく定直は谷幅の狭まった所に柵を結い、左右に木戸を設けて防戦の態勢を整えた。援将として奥平貞勝の嫡男貞能が砦に入った。
 さて、野田勢である。夜中、風吹峠に達した定村は一気に雨山砦に迫った。野田伝記には「両峰峨々として険しく、左右にそば立ち、渓路わづかに通ずるのみ、攻むるに難く守るに易く、要害の地にして容易に攻抜き難くぞ見えたりける」とある。
 夜が白みはじめ、朝もやの彼方に砦の柵が見えた。定村は学問より武術を好んだといわれる武将である。戦国の世に生まれ、敵陣を前にして躊躇するようでは家中一党を率いて行くことはできないのだ。定村は東三河の諸将が到着する前に野田勢のみで片付けようと決心した。
「敵は小勢にてさまでの事はあるまじ、柵を破りて乗っ取るべし」
 と定村は家中の小山源三郎に開戦の鏑矢を砦目がけて射させた。
 砦からもその鏑矢が射返されると野田勢は一斉に砦の柵に攻めかかった。
 砦の本丸には奥平貞能が陣取り、左の木戸は阿知波定直、右の木戸は弟五郎右衛門が守っていた。
 敵味方必死の攻防が続き、やがて右の木戸が破られそうになった。その時、五郎右衛門の目に谷の上で指揮する定村の姿が見えた。砦を救うには敵将を討取るほかなしとみた五郎右衛門は谷底に下り立ち、上げ矢で定村を射た。矢は定村の左の咽から耳の根へ射通したという。さすがの勇将定村も落馬して息絶えた。享年三十六歳であった。定村討死後も野田勢の攻撃は続き、定村の弟定貴(宇利城主・二十九歳)、同じく定満(二十五歳)、その他多くの家来が討死してしまった。
 ▲ 雨山ダムに至る道路脇に建てられた「雨山合戦跡」の石碑。
▲ 雨山ダムの近くには菅沼定村の墓がある。これは台石だけ残っていた墓をダム建設の際に現在地に移し、新たに供養塔を建てたものである。右が定村の供養塔、左が合戦戦死者の慰霊塔である。
 ちなみに定村の弟のうち定圓と定自は織田方についていた。大勢力の狭間で弱小勢力が生き残るためにはたとえ身内であろうとも敵味方に別れ、血で血を洗う戦いに臨まなければならなかったのである。この戦いで今川方に残った定村と二人の兄弟は皆討死してしまったが、幸いなことに野田菅沼家は定村の嫡子定盈が家督を継ぎ、後のことであるが定盈の子孫は徳川譜代として続いていくことになる。
 さて雨山砦であるが、一旦は野田勢を撃退したものの今川方の第二陣として駆けつけた伊奈城(宝飯郡小坂井町)の本多勢による猛攻を受け、支えきれずに皆逃げ落ちた。結局、雨山合戦は今川方の勝利に終ったのでる。
 砦を維持できなかった阿知波定直であったが、その後も奥平家に仕え続け、元亀元年には姓を奥平に改めている。三方原合戦、岩村城攻めなどに活躍し、天正三年(1575)には武者奉行として長篠城の籠城戦に加わった。奥平家におけるその働きは目覚しく、奥平家直臣として七族座上(筆頭)にまでなった。天正四年、新城城の普請奉行、また慶長五年(1600)には美濃加納城の普請にも携わり、築城家としての一面も残している。元和六年(1620)下総古河(奥平忠昌十一万石)にて没す。享年八十五歳であった。
----備考----
画像の撮影時期*2007/10

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