新城城
(しんしろじょう)

市指定史跡

            新城市東入船           


▲ 土塁跡の大正4年に建てられた城址碑。

ゆくゆく繁昌の
        ところなるべし

 天正三年(1575)の長篠合戦で長篠城を守り抜いた奥平信昌はその戦功を賞されて三河の田嶺、作手、吉良、長篠、遠江の刑部、新居など合わせて三千貫が与えられた。

 その際に信昌は家康から、
「長篠は狭小につき郷ヶ原(新城市街)に城を築くがよい。そこは伊奈街道の押えでもあり、山家三方の入口でもある。ゆくゆくは繁昌する処であろうぞ」
 と新城の築城を命ぜられたというのである。

 たしかに長篠城は戦いの城ではあっても家臣団を住まわせ、城下町を形成するには地形的にも不向きであった。

 とはいえ、長篠城は信昌にとって、武田の大軍を相手に生死をかけて戦い抜いた城である。そのすべてを廃却するには偲びなかったのではないだろうか。また当時の艱難辛苦を忘れ去らぬためにも信昌は長篠城の縄張りを写し、櫓門などの建造物なども移築して利用した。単に工事期間短縮のためばかりではなかったのではないだろうか。

 翌天正四年九月、新城城完成。十二月、信昌は家康の長女亀姫を娶った。これは天正元年に家康が信昌に約束したことである。

 亀姫の入輿月については十二月ではなく隠密裏に、すでに七月には信昌のもとに嫁していたと云われている。隠密裏に事を運ぶために家臣が亀姫を背負って城に入ったという。まだ工事中の時期であったということになる。

 この亀姫の入輿を隠密裏にしたことについては、家康が幼少のおり駿河に人質として移動中に謀られて尾張に送られてしまったという体験からであると云われている。天正四年のこの当時は武田との大戦の後だけにこの辺りの治安回復に時間がかかっていたということであろうか。

 天正十八年(1590)、家康の関東入国により信昌は上州宮崎(群馬県富岡市)三万石に移り、東三河一帯は吉田城に入った池田輝政の支配となった。新城城には輝政の重臣片桐半右衛門正義が七千石で入った。片桐半右衛門は領内に石田城を築いている。

 慶長五年(1600)関ヶ原合戦後、池田家は姫路へ移り、新城は天領となった。

 慶長十一年(1606)水野弾正忠分長が一万二千石で新城城主となった。水野氏は二代続いて嫡男元綱のとき、正保二年(1645)に上州安中二万石に転封となった。

 慶安元年(1648)菅沼定実が七千石で入城して陣屋を構えた。

 定実は野田菅沼氏の裔で、三代定盈は元亀四年(1573)武田信玄を相手に野田城で壮絶な籠城戦を展開したことで知られている。しかし、六代定昭(丹波亀山四万余石)が正保四年(1647)に早世して嗣子無く断絶となってしまった。そこで幕府は定盈以来の忠勤の家系の絶えることを惜しみ、定昭の弟たち(定実、定賞)に祖先の地である設楽郡内に一万石を与えたのである。

 祖先の地に戻った定実は有教館と名付けた文武所を設け、また茶道にも長じていたという風流人であったようだ。この近くの桜淵は桜の名所として有名であるが、ここに桜樹を植えはじめたのも定実であったといわれている。

 菅沼家は定実の後十一代続いて明治を迎えた。

▲城址の大部分は新城小学校の校庭となってしまっているが、その片隅にわずかに土塁の一部が残っている。

▲同じく土塁跡。

▲「新城城二ノ丸址」の石碑。本丸の東隣である。

▲土塁上の説明板。



----備考----
訪問年月日 2007年2月17日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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