石田城
(いしだじょう)

市指定史跡

           新城市石田           


▲ 北東方向から眺めた石田城址。土塁に囲まれた内側は
茶畑となっている。また土塁の北側には堀跡が残存する。

片桐半右衛門
       下屋敷

 片桐半右衛門俊元(または一長、俊忠、正義)は関ヶ原合戦後に播磨姫路五十二万石(姫路城)の太守となった池田家の重臣である。

 半右衛門と池田家との関係は桶狭間合戦の年の永禄三年(1560)に遡る。この合戦で功名をあげた池田恒興は織田信長から三十人の侍大将に抜擢された。その際に土倉四郎兵衛と八木笹右衛門を組頭として付けてもらったが、恒興はさらに願い出て香川長兵衛(伊木清兵衛)と片桐半右衛門を与力にしてもらったのである。それまでの半右衛門は信長に仕えて軽海西城(岐阜県本巣市軽海)を居城としていた。

 「池田家履歴略記」に、「片桐半右衛門は知恵明かに義理を正し仕え候えは、政道の御相談は彼にしくもの有るへからず、長兵衛同前に御取立有るへし」とある。

 恒興は半右衛門と長兵衛を池田家の柱石として遇した。恒興は天正十二年(1584)小牧長久手の戦いで戦死するが、その後を継いだ輝政も半右衛門を重臣として重く用いている。

 天正十八年(1590)、池田輝政は豊臣秀吉の命によって三河吉田城に十五万石で入った。半右衛門はそのうちの七千石で新城城の城主となったのである。

 その翌年から半右衛門は新城城の西南、石田村に新たな城を築きはじめた。天正二十年にはそこへ移ったと云われている。

 その城がこの石田城なのである。野田川が豊川に合流する角に位置し、当時は「半右衛門様の下屋敷」(「新城聞書」)と呼ばれていたらしい。

 慶長二年(1597)、石田城完成から五年後、半右衛門は病没した。新城城で亡くなったのか石田城で亡くなったのかは分からない。

 半右衛門の家督は池田長政が継いだ。男子に恵まれなかった半右衛門が天正十一年に恒興に懇請して四男橘左衛門(長政)を養子としていたのである。半右衛門が新城に来た当時、長政は秀吉から一万石を与えられる身分となっていた。この石田城は半右衛門が長政のために築いたとの見方もある。

 いずれにせよ、慶長五年に池田家は姫路に移り、石田城は廃城となった。


▲城址北側の水堀跡。

▲城址東側の土塁。

▲土塁上に建てられた城址の標柱。

▲土塁の内側は茶畑となっている。



----備考----
訪問年月日 2007年4月1日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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