宇利城
(うりじょう)

                   新城市中宇利           


▲ 宇利城全景。右に見える坂道が登山口である。宇利城の戦いでは
熊谷勢370余人、松平勢90余人が討死したと云われている。

豪勇熊谷備中守、
        裏切りに泣く

 享禄三年(1530)秋、三河統一を進める岡崎城の松平清康(徳川家康の祖父)は未だに従おうとしない遠江国境に近い宇利城の熊谷備中守を攻めるために兵三千余をもって軍を進めた。
 東三河の内でも野田城の菅沼氏、作手城の奥平氏はこの時すでに清康に従っていた。野田城主菅沼新八郎定則は先陣として豊川渡渉の道案内をつとめ、作手城主奥平監物貞勝は手勢を率いて清康軍に合流した。
 豊川を渡った清康軍は黒田から風越峠(城址西方)を越えて宇利城に迫った。清康は軍を二手に分け、自らは旗本と奥平勢合わせて千余の兵で搦手を押えるべく富賀寺の山頂に陣取った。残る二千余の兵は松平内膳信定、松平右京亮親盛らの一族衆に任せて大手口に配した。
 戦闘は松平方の近藤左近右衛門、斉藤弾右衛門による五敵七敵退治の鏑矢によって始まった。同時に押し太鼓と喊声、矢叫びが天地にこだまして宇利城の大手めがけて松平勢が殺到した。
 宇利城の本丸へと続く山肌を駆け登り、大手の木戸近くに一番乗りしたのは松平右京亮の一隊であった。
 松平右京亮は一族衆の内でも武辺第一と云われ、弟の内膳信定とともに清康の叔父であると同時に清康軍の重鎮であった。
 一方の宇利城主熊谷備中守も豪勇をもってなる猛将である。松平勢の接近を見た備中守は大手の木戸を開き、一隊を率いて逆落としに右京亮隊に襲いかかった。
 大手口はたちまち乱戦となり、その激しさに後続の松平勢の足が止まった。右京亮隊は孤立状態となりながらも果敢に熊谷勢と火花を散らして戦った。
「甲斐なき味方の振舞いかな」
 右京亮は歯噛みして口惜しがった。それでも右京亮隊は一歩も退くことなく、ついに主従十三人は壮烈な討死を遂げてしまった。
 このときの討死の面々、天野源兵衛忠俊、大浜源内、宮野平七、同平八、鈴木主殿助、安達助作、近藤治右衛門らの名が伝えられている。
 この様子を山上から望見していた清康は、
「右京亮を討たせて何の面目かあらん。かけ寄て討死せよ」

▲ 大手口の激戦地跡。熊谷勢と松平勢が死闘を繰り広げた場所である。宇利城の戦いはその描写が克明に伝えられている希少な山城であるる
 と真っ先立って采配を振るった。その様は天魔鬼神も顔を背けるほどの形相であったという。
 松平内膳は右京亮隊の全滅を目前にしながらも熊谷勢の反撃の激しさに前進できずに矢を射かけるばかりであった。それを見かねた菅沼定則の隊が熊谷勢に襲い掛かり、奥平貞勝隊も清康のもとから駆け付けて戦闘に加わった。松平内膳隊もようやく前進して熊谷勢を三方より攻めたて、備中守らを城内に追い込むことができた。
 城内に引籠もった熊谷勢は塀に取り付く寄せ手に対して大石大木を落として防ぎ、矢櫓からは近寄る敵兵に矢の雨を降らせた。
 熊谷方の武将では近藤満用、近藤平左衛門(十九歳)、近藤力之丞(大兵の弓引き)の名が伝えられている(近藤氏は同氏系譜によると清康方として奮戦、熊谷備中守を討ち取り、宇利城を賜るとなっている)。
 ▲ 寛保二年(1742)、領主安部摂津守が建立した「松平右京亮」の墓。大手口の戦場跡に建てられている。墓碑の表面は剥がれ落ちて文字は判読できない。
▲ 城内三ヶ所ある井戸のひとつ。この井戸は完全に埋まって、少し窪んでいるのみである。
 熊谷勢の必死の防戦で戦闘は膠着状態となった。頃合をみて、菅沼定則が小高い丘から狼煙を上げた。
 すると城内から火の手が上がり、折からの強風に煽られて矢櫓などが焼け落ちた。菅沼定則に内通する岩瀬庄右衛門が火を放ったのである。
 さすがの熊谷備中守も憤怒の涙を呑んで、城を落去した。大将を失った城兵は散々となり、ここに宇利城は清康の有するところとなったのである。
 戦後、宇利城は戦功第一となった菅沼定則に山吉田とともに与えられた。定則は子の新三左衛門定貴に宇利を与えたようであるが、城主としてこの地に居住したのかはよく分からない。
 そして熊谷時代からこの地に土着していた近藤氏が宇利城主としてその名を史上に現すようになるのは永禄十一年(1568)徳川家康による遠州進攻のときである。井伊谷三人衆のひとりとして家康の先陣をつとめた近藤石見守康用がそれである。家康の遠州進出にともない近藤氏も遠州に移転した。このことによって宇利城の役目も終わったとみてよいだろう。

▲ 本丸跡に建てられた城址碑。

▲ 本丸跡には城址碑の他に「熊谷備中守実長碑」と刻まれた石碑が建っている。備中守は落城に際して城内に財宝を埋めたとも、また姫君が金の茶釜を抱いて井戸に身を投げたとも伝えられている。
 ところで熊谷氏のことである。源平合戦で活躍した熊谷次郎直実の五代の後、鎌倉末期の元弘三年(1333)、足利尊氏の六波羅攻めに参陣した熊谷直鎮(なおつね)が三河国簗郡を賜ったことに始まるとされている。実際に宇利に土着するようになったのは直鎮から数代を経た重実からだと云われている。重実の子実長は今川氏に属していたことが判明している。この実長が清康と戦った備中守であろうか(備中守の名乗りに関しては諸書によって忠重、直利、直盛と一定していない)。また、宇利城がいつ頃誰によって築かれたのかも判然としない。
 落城後の熊谷氏は実長の長男直安が兎鹿嶋(とがしま、北設楽郡豊根村)に土着して帰農した。次男正直は高力(額田郡幸田町)に落ちた。正直の子重長は高力を名乗り、松平家に仕えた。重長の孫清長は三河三奉行に数えられるほどで、「仏の高力」と呼ばれたことで知られている。また、備中守の長男直安の子の直次は今川氏を頼って遠江(浜松市入野)に移ったと伝えられている。
 備中守自身は落城後とうしたのであろうか。討たれたとも伝えられているが、定かではない。
----備考----
画像の撮影時期*2007/01

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