石橋城
(いしばしじょう)

            新城市作手清岳           


▲ 石橋城址である慈昌院の山門。戦国時代、一族内の対立は徹底した討伐によって片付けられた。

石橋弾正、謀反

 奥平宗家の居城である亀山城の西数百bのところに禅刹慈昌院がある。そこは戦国期、石橋弾正久勝が城館を構えていたところである。現在は寺の入口に「石橋城址」の標柱が建てられている。

 石橋久勝は奥平二代当主貞久の次男で、ここ石橋村に城館を築いて石橋を名乗り、三代貞昌に仕えた。

 天文四年(1535)、貞昌の死去によってその嫡男貞勝が宗家の当主となった。まだ二十代前半の若さであったという。

 この若さが一族内に波乱を起こしたともいえようか。
「天文六年九月二十二日、一族奥平弾正(石橋)、公(貞勝)の若年なるに乗じて、不軌を図らんとす…(「中津藩史」)」と云われている。

 寺内に設置された説明板によれば、石橋弾正久勝の子弾正繁昌が謀反を企んだという。

 しかしこの企みは宗家の知るところとなり、貞勝の命を受けた和田土佐定雄の一隊によって攻め込まれ、石橋家中四十二名ことごとくが討取られてしまった。石橋家の謀反は未発に終ったのである。

 討取られた四十二名は一所に埋められた。後年、石橋一族の死を哀れんだ徳岩明和尚が当主貞勝に願い出、石橋弾正の城館跡を貰い受けて一寺を建立した。それが現在ある石橋山慈昌院なのである。

 寺境内の裏手には天文当時の土塁が今もなお残っている。その土塁の腰に無縫塔や石祠を祀る一画がある。そこには弾正以下四十二名が祀られている。

 ちなみに弾正の子、太郎次郎は鳳来寺に難を逃れたのであるが、貞勝は黒谷重氏、重吉兄弟に命じて討取らせ、禍根を断ったという。

 貞勝はその後、今川、織田、武田という戦国大名のせめぎ合う中を巧みに生き残り、後図を貞能に譲った。貞能は徳川家康に仕え、子孫は豊前中津十万石の大名として栄えた。その影にはこうした悲劇もあったということを忘れてはならない。
 ▲ 慈昌院の境内裏手に残る土塁。
▲ 土塁の一画に並び立つ墓塔群。石橋弾正を祀る石祠は中央に据えられている。



----備考----
訪問年月日 2008年10月
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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