布里城
(ふりじょう)

          新城市布里          


▲ 布里城址を南側から望見。正面の丘が城址である。丘の左側部分が主郭跡とされて
いる。城址の大半が茶畑や採土によって改変されており、遺構を見出すことはできない。

骨肉の戦い、
     布里合戦

 田嶺城三代目菅沼大膳亮定広は寒狭川に沿って南にその勢力を拡大した。定広の息子たちはその広がった地にそれぞれ城砦を築いて拠った。大谷城(新城市上平井)に嫡子定継、大野城(新城市大野)に四男定氏、井代城(新城市井代)に五男定仙、そしてここ布里城には三男定直が拠った。

 弘治元年(1555)、菅沼宗家を継いで田嶺城主となっていた定継は作手の亀山城主奥平貞勝の誘いを受けて今川方から織田方へ鞍替えした。

 ところが、宗家が織田方になったからといって兄弟一族のすべてがこれに従ったわけではなかった。それぞれが各所で一城一家を構えていたのであるからその進退には慎重にならざるを得なかった。

 結局、宗家定継のもとに参じたのは島田城(新城市愛郷)の菅沼定孝、定継の次弟定俊、野田菅沼家の定圓、定自らで、田内城(設楽町田内)の菅沼定勝、大野城の菅沼定氏、井代城の菅沼定仙、野田城の菅沼定村、宇利城の菅沼定貴、山吉田城の菅沼定満、そしてここ布里城の菅沼定直らは今川方に残ったのである。

 弘治二年五月、田嶺城の定継は奥平の援軍とともに布里を襲い、定直らを敗走させた。同族相食む骨肉の戦いのはじまりであった。

 八月、今川方の援軍を得、反撃の態勢を整えた定直らは再び布里に進撃、定継勢と激戦となった。二十一日、布里の黒ヌタ(場所不明)で定継らは討死あるいは自害して果てた。また、定圓は鳳来山麓椿坂で、定自は田嶺に近い与良木峠付近で討たれたと伝えられており、この戦いの徹底した討伐ぶりがうかがえる。

 布里で勝利した定直ら今川方の菅沼勢は無主となった田嶺城に迫り、山中を落ち延びようとしていた定継の遺児小法師を捕らえた。さすがに三歳の幼児は斬れなかったようである。定直は田嶺城で小法師を菅沼宗家の後継ぎとして養育することにした。

 小法師、成長して定忠と名乗り、天正三年(1575)の長篠合戦に際しては定直らの反対を押し切って武田勝頼のもとに参じた。戦いは武田の敗北となり、定忠は勝頼を案内して田嶺城に戻ったが、定直らは城門を閉ざして入れようとしなかった。

 この田嶺城締め出しに対する定忠の怒りは尋常のものではなかった。翌年、定忠は同志を結集して田嶺城を急襲した。そして定直以下城内にいた老若男女九十六人を皆殺しにしてしまったのである。

 定直の小法師にかけた情けは何だったのであろうか。
 ▲ 主郭部の土塁状になっているところには石祠などが置かれている。
▲ 城址から眺めた寒狭川と布里の風景。布里合戦が城取りの戦いであったのか、それとも野戦または山岳戦であったのか、今となってはわからない。いや、そのすべてが演じられた骨肉の戦いであったかもしれない。



----備考----
訪問年月日 2007年11月
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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