亀山城
(かめやまじょう)

        三重県亀山市本丸町      


▲ 亀山城は鎌倉期より当地を治めた関氏の本拠地として
戦国期に至り、関氏の後に近世城郭として再修築された。
(写真・江戸末期の姿に復元された本丸多聞櫓。)

関五家の本城

 鈴鹿郡久我で生まれたと言われ、平資盛の子孫と称する平実忠が史上に躍り出たのが元久元年(1204)に起きた三日平氏の乱に於いてであった。この乱は平氏残党の反乱事件であったが、実忠はこの鎮圧に参じて奮戦したのであった。この時の戦功で実忠は鈴鹿郡関谷二十四郷の地頭職に補せられ、関に館(亀山市山下町)を築いて関氏を称した。関氏の始まりである。
 宝治元年(1247)、鎌倉から戻った実忠は文永元年(1264)に丘陵地に城館を移し、その翌年に亡くなったと言われる。この時の城館の地が亀山古城、又は若山城と呼ばれるものである。
 実忠以降の歴代の事績は明確でないが、六代目とされる盛政が南北朝期の延文五年(1360/正平十五年)に伊勢守護仁木氏討伐に活躍して功名を上げ、領地も鈴鹿と河曲の二郡と増えた。盛政は領内に五人の子を配してその勢力を誇った。すなわち長男盛澄は神戸の沢城主(後に神戸城)として神戸氏を称し、次男盛門は国府城に入り国府氏を、三男盛繁は本家亀山城を継ぎ、四男盛宗は鹿伏兎城に入り鹿伏兎氏を、五男政実は峯城主となって峯氏を称した。これらは関五家、又は関の五大将と呼ばれて勢威をふるい、戦国時代へと至る。
 この間に亀山城は拡張され、後に近世城郭として築かれる亀山城の城域にも達しており、発掘調査からも近世亀山城の下層から空堀や土塁跡が確認されているそうである。
 永禄十一年(1568)、織田信長の北伊勢進攻によって神戸城が信長の三男信孝を養子に入れて降った。関宗家亀山城主の盛信も信長には敵わず、降伏して信孝の配下となった。元亀四年(1573)、信孝との不和がたたって近江日野城に幽閉されるも天正十年(1582)に赦されて亀山城に復帰した。本能寺の変後は蒲生氏と共に羽柴秀吉に属した。その後、賤ヶ岳の戦いに至る過程で長島城の滝川一益によって亀山城が接収され滝川家臣佐治新介が守将として入ったが、秀吉の大軍に攻められて降伏開城となり、盛信の子一政に戻された。

 天正十八年(1590)、一政は蒲生氏郷とともに会津に移り、白河城五万石を与えられた。替わって亀山城には岡本宗憲が二万二千石で入城した。
 亀山城はこの岡本宗憲によって近世城郭化への修築が始まり、天守も築かれた。
 慶長五年(1600)関ヶ原合戦で岡本宗憲は西軍に付いて桑名城を守っていたが西軍敗北後に自刃した。
 戦後再び関一政が三万石で亀山城に復帰、亀山藩が立藩された。慶長十五年(1610)、松平忠明が五万石で入部、一時天領を経て元和五年(1619)に三宅康信が一万石で入部、二代康盛と続いた。
 この三宅康盛の時代に丹波亀山城と勘違いした堀尾忠晴が幕命として天守を取り壊してしまっている。幕府はこれ幸いとばかりに天守の再建を許さなかったと言われている。
 三宅氏の後、本多、石川、大給松平、板倉と譜代の城主が入れ替わり、延享元年(1744)に石川総慶が六万石で入部して後十一代続いて明治に至った。
 近世亀山城の完成は三宅氏の後に藩主となった本多俊次の時代(寛永十三年/1636-慶安四年/1651)であったとされている。


▲二之丸帯曲輪に復元された土塀。
 ▲本丸跡の亀山神社。亀山藩主石川氏の先祖源義家、源義時、石川義純を祭神としている。
▲本丸多聞櫓北側の井戸跡。与助井戸と呼ばれている。城外への抜け穴伝説があるそうだ。

▲本丸多聞櫓への登り口。明治になり城は破却されたが、この多聞櫓だけは石川家旧臣が失業士族の授産場として落札したため取り壊しを免れた。

▲本丸多聞櫓南面。明治以降、傷みが激しく壁も板張りで補修されていたが、平成25年(2013)4月に江戸末期の姿に復元された。

▲本丸多聞櫓の石垣。かつてはこの石垣のうえに天守が建っていたという。

▲多聞櫓の北側に立つ「亀山城楠門跡」の標柱。

▲復元された二之丸帯曲輪(外側から)。

▲公園の池であるがかつての外堀跡である。

▲本丸北端に建っていた三重櫓跡。

▲二之丸帯曲輪。

▲二之丸から帯曲輪への出入り口であった埋門の跡。

▲二之丸帯曲輪の図。
----備考----
訪問年月日 2014年1月2日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「三重の山城ベスト50を歩く」他

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