峯城
(みねじょう)

            三重県亀山市川崎町         


▲峯城は関五家のひとつ峯氏の居城として築かれたもので
あるが、その名を天下に示したのは賤ヶ岳合戦の前哨戦と
して知られる羽柴秀吉による北伊勢進攻の時であった。
(写真・本丸西側土塁上の伝・天守台跡。)

頑強峯城、天下にその名を示す

 貞治六年(1367/正平二十二年)、亀山城主の関盛政は領内の要所に五人の子を分家して配した。長男盛澄は沢城(後に神戸城)にて神戸氏を名乗り、次男盛門は国府城にて国府氏を名乗った。三男盛繁は本拠地亀山城を継ぎ、四男盛宗は鹿伏兎城にて鹿伏兎氏を称した。そして盛政は五男政実に所領二十四郷、侍六百人、小人四百人を与え、峯城を築かせて峯氏を名乗らせた。
 峯氏はその後数代を経て戦国期に至るが、その事績に関してはあまり明らかではないようである。応仁の乱(1467)では関本家と共に東軍に属し、相国寺の戦いで当主盛清が討死したこと、その後は安濃郡の長野氏と十年余にわたり争ったことなどが伝えられているが、基本的には関本家や神戸氏らと共に行動していたと思われ、永禄(1558-70)の中頃には近江六角氏に属していたようである。永禄十年(1567)になると織田信長による伊勢進攻が始まり、翌十一年(1568)には神戸氏が信長の三男信孝を養子に受け入れて降り、関本家も信長に降った。峯氏も同様に信長に降り、その麾下に参ずることになった。元亀二年(1571)、信孝が神戸氏の家督を継いだ後はその配下に属したものと思われる。
 天正二年(1574)、織田信長は大軍を動員して長島一向一揆(長島城)の完全制圧に乗り出したが、峯氏の当主八郎四郎盛祐も長島討伐に従軍した。一揆勢との激しい戦いは三ヵ月続き、数万の門徒が殺戮され、信長による討伐は終わったが、この戦いで盛祐は討死してしまった。盛祐に嗣子無く、領地は没収され、峯氏は没落又は滅んだとするのが通説となっている。
 神戸信孝は重臣岡本下野守良勝を峯城主とした。一説には長島で討死した盛祐の弟与八郎が幼少のため岡本良勝が峯城を賜ったとも言われている。与八郎は長じて信濃守盛治と名乗り、天正十二年(1584)美濃加賀野井で討死して峯氏は断絶したとされる。
 天正十年(1582)、信長の後継争いで信孝は織田姓に復して兄信雄と争うことになった。翌十一年(1583)、北伊勢では長島城の滝川一益が信孝に与して、北伊勢の諸城の攻略に兵を動かした。この動きが、やがて羽柴秀吉と柴田勝家が激突する賤ヶ岳合戦へと至るのである。峯城の岡本良勝は滝川一益に同調して戦備を整えていたが、信雄が同心する羽柴秀吉方に寝返った。滝川一益は直ちに峯城攻略の兵を向けて城を奪取、甥の滝川義太夫益重を城将として配した。

 羽柴秀吉は柴田勝家が雪で動けぬうちにと二月に三万の大軍を率いて北伊勢に進撃、亀山城、国府城と共に峯城を包囲した。滝川一益の長島城も蒲生氏郷ら数万の兵が包囲して滝川方の城はそれぞれ孤軍奮闘する形となってしまった。
 峯城の守将を任された滝川義太夫は三千の守兵で籠城戦を戦い抜いたが孤立無援の中、二月二十日に国府城が落城、三月三日には亀山城が落城した。峯城には羽柴秀長、三好秀次、筒井順慶といった諸隊が攻撃を加え、付城を築いて攻囲を強化した。
 こうした峯城の奮闘は戦局の行方を左右するものと見られていたようで、宣教師ルイス・フロイスも東インド総督宛の報告に峯城のことを記しているという。
 四月に入ると秀吉は柴田勝家との対戦に備え、峯城には押さえの兵を残して大垣城に移った。 孤軍奮闘を続けていた峯城も次第に兵糧尽き、矢玉尽き果て、滝川義太夫は四月十七日に至り、ついに桑名への退城を決して開城した。賤ヶ岳合戦の三日前のことであった。


▲南側から見た峯城址。矢印の所に説明板がある。

 峯城は織田信雄の支配下に置かれ、佐久間駿河守正勝が城将として入った。
 天正十二年(1584)に入ると信雄と秀吉が敵対する状況となり、再び北伊勢は戦乱の地となる。三月、秀吉は北伊勢に進出した。峯城には信雄方の天野景俊、佐久間正勝らが陣したが蒲生氏郷、関盛信や秀吉に付いた滝川一益らの攻撃を受けてわずか数日で落城、佐久間らは尾張に退去した。
 その後、峯城は在地支配の拠点として維持されたようだが、天正十八年(1590)に岡本良勝が亀山城主となるにあたって廃されたと伝えられている。

 ▲農道脇の城址案内板。
▲城跡の入り口には説明板が立っている。

▲説明板から山裾を進むと本丸入口の案内板と県指定史跡であることを示す城址の標柱が立っている。

▲本丸入口から登るとすぐに本丸である。この反対側は二之丸である。

▲土塁上を進んで本丸(伝)天守台の方へ向かう。

▲土塁の右下は本丸の削平地である。

▲土塁の幅が広くなっている部分がある。櫓台(伝・天守台)の跡である。

▲櫓台の先にも土塁が続いている。

▲城跡の入り口に説明板と共に立っていた峯城の絵図。天正年間頃となっていた。
----備考----
訪問年月日 2014年1月2日
主要参考資料 「三重の山城ベスト50を歩く」
「日本城郭史料集/諸国廃城考」他

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