日野城
(ひのじょう)

        滋賀県蒲生郡日野町西大路      


▲ 日野城は中野城とも呼ばれる蒲生氏後期の居城てあった。後に
会津九十二万石の大名となった蒲生氏郷はこの城で生まれた。
(写真・本丸北東側の堀と土橋。)

義を守て降らず

 日野城は蒲生氏の居城として天文二年(1533)に築城され始めたものであるが、長い歴史をもつ国人領主の城にしては歴史が浅い。それもそのはずで、蒲生氏本来の城は音羽城(日野城の東南東約2km)なのである。場合によってはこちらも日野城と呼ばれることがある。つまりは蒲生氏の城、日野城なのである。地元では音羽城に対してこちらの城を中野城と呼んでいるようだ。要するに蒲生氏初期の日野城が音羽城であり、蒲生氏後期の日野城がこの中野城なのである。
 蒲生氏初期の日野城である音羽城は応仁・文明(1467-86)の頃に十四代当主貞秀が築いたとされ、観音寺城主六角高頼に属していた。明応四年(1495)、嫡男秀行が家督を継いで音羽城主となった。そして次男高郷を六角氏の被官として出仕させた。
 永正十年(1513)、秀行が早逝すると高郷が六角氏の後援を得て父貞秀に家督相続を願い出た。しかし貞秀は嫡孫となる秀紀に家督を譲り、翌年に没してしまった。
 大永(1521-32)に入ると近江は六角氏全盛の時代となる。高郷は主君六角定頼の後援を得てついに力による家督奪取に立ち上がり、音羽城を攻めたのである。攻城戦は大永二年(1522)七月から八ヵ月続いたというから、音羽城の堅固ぶりがうかがえる。結局、秀紀は降参して音羽城を退去させられ、大永五年(1525)に毒殺されてしまった。そして音羽城も廃城となった。
 蒲生家の家督は高郷の嫡男定秀が引き継ぐことになった。この新当主となった定秀が天文二年(1533)から三年がかりでここ中野の地に築城したのがこの日野城なのである。城造りとともに町割りをして城下町も整備された。日本で初めて楽市を設けて賑わう観音寺城の城下に刺激されたことは言うまでもなかろう。
 永禄六年(1563)十月、観音寺城では六角義治が重臣後藤但馬守を誅したことに端を発して六角家臣団の不満が爆発していた。身の危険を感じた六角義賢、義治父子は観音寺城を退去、蒲生定秀を頼ってここ日野城に難を逃れてきたのである。この時、定秀は嫡男賢秀とともに六角家臣団との和睦を調え、主君義賢、義治父子を観音寺城に復帰せしめている。
 永禄十一年(1568)、織田信長の上洛軍の攻撃を受けた観音寺城は六角父子の逃走によってたった一日で落城してしまった。この時、定秀、賢秀父子は日野城に立て籠もり、織田勢の来襲に備えていた。「諸国廃城考」に「此城に楯籠り義を守て降らず」とある。信義に厚い武将であったといえる。

 信長は日野城を力攻めすることなく、蒲生家と姻戚にある神戸具盛を説得の使者として派遣した。定秀、賢秀は説得に応じ、賢秀の嫡男鶴千代丸(氏郷)を人質に出して信長に臣従することとなった。
 信長は鶴千代丸が気に入ったようで自ら烏帽子親となって元服させ、次女冬姫を娶らせている。鶴千代丸こと氏郷は信長のもとで武功を挙げて活躍した。天正十年(1582)の本能寺の変の際には安土城の信長の妻子を伴って日野城に保護し、明智勢の来襲に備えたという。
 変後は羽柴秀吉に仕え、天正十二年(1584)に伊勢松ヶ島十二万石に封ぜられて蒲生氏は日野城を去ることとなった。
 その後、田中吉政、長束正家の持城となったが、関ヶ原合戦(1600)後廃城となった。


▲ かつての本丸跡に残る「蒲生氏郷公産湯の井戸」。
 ▲ 本丸虎口跡に建つ「中野城趾」の碑。
▲ 城址東側に迫る日野川ダム湖。

▲ 駐車場から城跡へ向かうと中野城跡の大きな説明板が立っている。

▲ 説明板からさらに進むと堀切のような切通しが見え、城跡の風情を感じさせてくれる。

▲ 切通しを抜けて振り返ると日野城跡の石碑が建っていた。背後の石垣は後世のものであろう。

▲ 日野城跡の石碑から先は土橋となっていて両側に堀が確認できる。

▲ 日野城跡の石碑の背後の石垣に設けられた階段を上がると稲荷社がある。かつての土塁の上に建てられている。

▲ これも土塁上の稲荷社。土塁の幅が広く、かなり堅固な造りであったことが分かる。

▲ かつての本丸跡は宅地と茶園になっている。
----備考----
訪問年月日 2012年9月15日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
 ↑ 「日本城郭史料集」他

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