亀山城
(かめやまじょう)

            京都府亀岡市荒塚町内丸    


▲亀山城は織田信長の丹波攻略の命を受けた明智光秀がその拠点として築いた
城である。天正十年(1582)の本能寺の変に際して、光秀はこの城から出陣した。
(写真・亀山城本丸天守台部分の石垣。)

光秀、本能寺へ

 明治二年(1869)に丹波亀山藩は伊勢亀山藩(亀山城)との混同を避けるために亀岡藩と改称され、その後亀岡県、亀岡市と変遷した。このため、亀山城は亀岡城として紹介されることもあったが、一般的には亀山城と呼称されている。
 天正三年(1575)六月、織田信長は丹波・丹後の平定を明智光秀に命じた。信長上洛時に拝謁して所領を安堵された丹波の豪族赤井(荻野)直正が但馬守護山名祐豊との抗争に勝利して竹田城を攻略するなどして反信長の態度を取っていたからである。また親義昭派であったとも言われている。信長は山名祐豊の要請もあり、光秀に赤井直正討伐を命じたのである。
 十月、光秀は丹波へ出陣して黒井城(兵庫県丹波市)に籠城する直正を包囲した。国人衆の大半は光秀に従い、直正討伐は時間の問題と見られていた。ところが、翌年一月に八上城主波多野秀治が直正方に寝返り、背後から明智軍に襲い掛かったために光秀は黒井城攻撃を切り上げて総退却を余儀なくされてしまった。
 天正五年(1577)十月、光秀は細川藤孝の加勢と共に丹波へ出陣した。亀山に進出した光秀は波多野氏配下の余部(あまるべ)城主福井貞政へ降伏臣従を勧告したが断られている。光秀は力攻めして攻略、福井一党三百人は落城とともに自害して果てたという。光秀はこの城を丹波攻略の当面の足掛かりとしたと言われている(亀岡市関連HP)。
 続いて光秀は波多野秀治の八上城を包囲して兵糧攻めの長期戦に入った。この間に国人衆に分担させて亀山の荒塚山に築城を開始した。丹波経略の拠点とするために突貫工事で進められ、部材や石材も寺社から転用されたようである。この城が亀山城である。三層の天守が建てられたと言われている。
 天正七年(1579)二月、波多野氏の八上城が落城。八月には赤井氏の黒井城が落城して丹波は光秀によって平定された。光秀と細川藤孝は引き続き丹後に進攻して同国を平定した。
 天正八年(1580)八月、信長は丹波を光秀に、丹後を細川藤孝に与えた。光秀は亀山城を本城とし、さらに福知山城を築いて明知秀満(光秀の娘婿)を城主として置いた。光秀自身は信長の安土城に近い坂本城に居ることが多かったが、丹波の統治に手を抜くことはなかった。丹波では領民への善政と家臣(国衆)思いの領主として現代に至るまで語り継がれているのである。
 天正十年(1582)三月、武田征伐に出陣。帰陣後の五月、光秀は安土城にて徳川家康の饗応役を務めていたが、十七日に信長より中国出陣の命を受けて準備のために坂本城へ帰城した。二十六日、丹波衆の集結する亀山城へ入城。二十八日、愛宕山へ参詣する。
 六月一日の夜、一万三千の明智勢は京へ向けて出発。中国出陣の前に信長の閲兵を受けるのだと兵に知らせ、信長討伐の目的は近臣のみに明かしたと言われている。
 二日未明に入京した明智勢は薄明るくなる午前四時過ぎには本能寺へ討入り、信長を死に追い込んだ。本能寺の変である。ご存知の通り、十一日後に光秀は中国戦線から引き返した羽柴秀吉との山崎合戦で敗れ、敗走の途次に土民に討たれて横死してしまった。
 清州会議(清州城)で丹波は秀吉の領国となり、亀山城には信長四男で秀吉の養子となっていた秀勝(於次丸)が城主として入った。この秀勝時代、城内に御殿が作事されたとされている。
 天正十三年(1585)、秀勝は亀山城にて病死、享年十八歳であった。秀吉は甥(姉の子)の小吉を養子として病死した秀勝の後を継がせた。諱は同じく秀勝である。後に江姫を妻とし、朝鮮の役で病死した。
 天正十五年(1587)、九州征伐後、秀勝は秀吉の怒りを買って丹波十万石を没収され、替わって秀吉弟の秀長に与えられたとされる。
 天正十九年(1591)頃(十七年とも)、豊臣秀俊(後の小早川秀秋)が丹波十万石を与えられて亀山城主となる。亀山城はこの秀俊の時代に諸大名を動員して大規模な改修整備が実施された。本丸、二の丸、三の丸が整備され、三重の天守が五重の天守に改築された。
 文禄四年(1595)、秀次事件の影響で秀俊は丹波十万石を没収され、前田玄以が亀山城主となる。
 慶長五年(1600)、玄以は五奉行でありながら家康に内通、関ケ原後は丹波亀山五万石を安堵されて初代藩主となる。
 慶長七年(1602)、玄以が没すると子の茂勝が継いだが、丹波八上藩五万石に移されて亀山は天領となる。
 慶長十四年(1609)、徳川譜代の岡部長盛が三万二千石で亀山に入部して再立藩された。
 翌年から西国大名を動員しての天下普請で名古屋城とともに亀山城の大改築が実施された。大坂城の豊臣家に対するものであった。普請には津城主藤堂高虎も参加しており、この改築で建てられた五層の層塔型天守は高虎が築いた今治城の天守を移築したものとも伝えられている。
 元和七年(1621)に松平(大給)成重(二万二千石/二代)が入部して後は目まぐるしく藩主が交代した。寛永十一年(1634)に菅沼定芳(四万千石/二代)、慶安元年(1648)に松平(藤井)忠晴(三万八千石/三代)、貞享二年(1685)に久世重之(五万石)、元禄十年(1697)に井上正岑(四万七千石)、元禄十五年(1702)に青山忠重(五万石/三代)と交代した。
 寛延二年(1749)に松平(形原)信岑が五万石で入部して後は八代続いて明治に至る。
 明治十年(1877)、廃城処分となり、石垣や部材、土地などが転売される。現在は宗教法人大本の聖地となっている。


▲万祥池と呼ばれる内堀跡。

▲階段上は天守跡であるが、禁足地となっていて立入禁止の場所となっている。。

▲城址は宗教法人大本の聖域となっている。見学には駐車場正面のみろく会館の受付に申し出る。

▲受付でお祓いを受けるように言われるので万祥殿(大本の神殿)へ向かう。石垣が目に入るが、大戦後に信徒によって積み直されたものである。

▲昭和11年(1926)に政府の弾圧によって全ての建物と石垣が爆破され、大半が土中に埋まっていたという。

▲お祓いを受けた後、指示された門から進むとこの石垣風景が現れる。見学できるのはこの周辺だけである。階段から上は立入禁止である。

▲天守台部分の石垣であるが、大本によって修復が繰り返されている。

▲大本のパンフによればこの石垣の下3分の1は光秀公当時の穴太積みが奇跡的に残っているとある。

▲天守石垣周辺。

▲天守台上へ続く積み直された石垣。

▲本丸南側の内堀跡(万祥池)。
----備考----
訪問年月日 2017年4月29日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「別冊歴史読本明智光秀」他

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