今治城
(いまばりじょう)

                  愛媛県今治市通町           


▲ 今治城天守閣と山里櫓(左)。天守閣は昭和55年(1980)に鉄筋コンクリート造五層六階で再建
された。藤堂高虎が移築のために解体撤去してから実に372年ぶりに天守閣が復活したことになる。

高虎、会心の城

 関ヶ原の合戦(慶長五年/1600)後、伊予国は藤堂高虎と加藤嘉明の二人が分け合うことになった。合戦前、藤堂高虎は伊予板島(宇和島)八万石、加藤嘉明は伊予松前十万石を領していたがそれぞれ二十万石に加増されたのである。加増地となった今治地方(高縄半島)は西軍に付いた安国寺恵瓊、来島康親、小川祐忠らの領地であったために藤堂領と加藤領が複雑に入り込むかたちとなってしまった。
 今治城の築城者となる藤堂高虎が板島(宇和島城)から加増地となった国分城(今治市古国分)に入ったのは慶長六年のことと思われる。瀬戸内海の海上交通の監視と広島城の福島正則、松山城の加藤嘉明といった旧豊臣系の大名を抑えるという目的があったのであろう。
 国分城は能島水軍の村上武吉が永禄(1558-1570)の頃に築いた城で、天正十三年(1585)に小早川隆景が入った。同十六年に福島正則が入って改築され、城下町まで形成された。文禄四年(1595)に正則が尾張清洲城に転じた後に池田景勝が、慶長三年には小川祐忠が城主となり、そして藤堂高虎の入城となったのである。
 しかし国分城そのものは藤堂領であってもその城下町の拝志は加藤領となっていた。しかも高虎と嘉明の仲の悪さから、両家臣間にもトラブルが多く、とても行政の府としては成りたち難い環境にあったといえる。
 翌慶長七年(1602)六月、高虎は国分城の北北西4.5`の今張に新城の築城に取り掛かった。この城が今治城である。この時に地名を「今治」に改めたと云われている。この地を治める、との意だそうだ。
 今治城は港を城の縄張に取り入れた城で、外、中、内の堀には海水が引き入れられていた。水軍の将として名高い高虎ならではの海城である。
 さらに今治城はその後の幕府城郭の標準化となった城でもある。それは方形の多用で、特に主郭部の縄張は正方形の組み合わせで構築されている。そしてこれは昭和四十二年(1967)に地元の研究者によって明らかになったことであるが、層塔型の天守閣が構築されていたことである。層塔型の採用によって用材の規格化が進み、その結果工期の短縮が実現された。
 城の完成は慶長九年(1604)九月である。工期は2年3ヶ月ということになる。お隣の加藤嘉明が松山城を20年以上かけて工事を続けたことと比べれば、あっという間に出来上がったということになる。まさしく今治城は高虎会心の作ということができよう。
 慶長十三年(1608)、高虎は伊勢・伊賀二十万石に移り、今治城には二万石で高虎の養子高吉が入った。

▲ 天守閣から見た「鉄御門」(中央凹型の所)。堅牢な内枡形の様子がわかる。左に見える港は城内に設けられた「船入」であった場所である。正面に見える島は「大島」でその左に並ぶ白い塔は来島海峡大橋である。
 この時、高虎は天守閣を伊賀上野城に移築しようと解体して大坂まで運んだが、家康の大坂城(豊臣秀頼)包囲の意を汲んで丹波亀山城に移したという。層塔型天守はこうした解体移築をも可能としたのである。
 寛永十二年(1635)、高吉は今治から伊勢名張に移ることになった。この間28年、稀にみる善政家であったと伝えられている。同時に、大坂夏の陣八尾の戦いで壊滅に瀕する藤堂軍を救って見せたように勇将でもあった。また、拝志事件では加藤家中の者に殺害された家臣のために自ら藩境の衣干山に馬を飛ばし、軍勢の集結を命じて戦を覚悟するほどの家臣思いの主人でもあった。
 高吉の後、今治城に入ったのは松平定房で三万石であった。定房は徳川家康の異父弟久松松平定勝の五男である。同時期に松山城にも定勝二男定行が入城しており、今治、松山の二藩は兄弟藩として助け合いながら幕末を迎えることになる。
 幕末の動乱期、松山藩が親藩ということで幕府に従順なあまり朝敵とされてしまったのに対し、今治藩十代定法は勤皇の志を明らかにして新政府側に付き、鳥羽伏見の戦いから会津城攻めに至るまで藩兵を送り出している。江戸城開城に先立つ慶応四年(1868)二月、定法は姓を松平から久松に改めた。時代の変革に敏感な殿様であったようだ。
 明治二年(1869)十月、「当今時勢不用之品」として廃城令を待たずに今治城は取り壊された。

▲ 主郭部への表門である「鉄御門」。

▲ 三ノ丸に建てられた「藤堂高虎公」の銅像。

▲ 二ノ丸から眺めた天守閣。

▲ 枡形門の内側隅にある「蒼吹の井」と呼ばれる井戸。

▲ 山里櫓門から見た天守閣。

▲ 山里櫓下に建てられた城址碑。

▲ 本丸南側の堀と石垣。手前の角は南隅櫓跡である。

▲ 二ノ丸の「御金櫓」。昭和60年(1985)に再建された。石垣と堀の水面の間に「犬走り」が見える。高虎流築城の特徴のひとつである。

▲ 「武具櫓」。鉄御門と多聞櫓で繋がっている。
----備考----
画像の撮影時期*2008/01