宇和島城
(うわじまじょう)

                  愛媛県宇和島市丸之内           


▲ 宇和島城天守閣。三層三階の小振りな天守閣であるが、
その均整のとれた美しさでは他に引けをとることはない。

伊達宇和島
      十万石の府城

 慶長十九年(1614)十二月、大坂冬の陣の和議が成った後、幕府は伊達政宗の長子秀宗を伊予宇和郡十万石に封じた。秀吉の猶子であった秀宗を伊達本家から分離させたのである。
 翌二十年正月に城地受取の家臣が先発、二月に秀宗以下家臣五十七騎(一騎にはそれぞれ家来が付属する)が宇和島に入った。
 この城が宇和島城となるのは藤堂高虎築城後のことで、それまでは板島丸串城と呼ばれていたが、簡単にそれまでの歴史を振り返ってみたい。
 最初に宇和郡の領主となったのは藤原純友討伐に戦功のあった橘遠保で天慶四年(941)のことで、この子孫が鎌倉期まで続いた。
 嘉禎二年(1236)になると太政大臣従一位で鎌倉幕府と朝廷双方に影響力を持った公家の西園寺公経の所領となり、戦国期には庶流の西園寺公良が郡内の土豪を結集支配して盟主となった。天正三年(1575)当時の丸串城は西園寺十五将のひとり西園寺宣久が居城としていた。
 やがて四国は長宗我部氏によって支配され、西園寺氏もこれに従った。続いて天正十三年、豊臣秀吉の四国征伐があって小早川隆景の所領となり、持田右京が城代として入った。さらに天正十五年には秀吉の家臣戸田勝隆(大洲城)の所領となり、戸田与左衛門が城代となった。
 戸田勝隆は西園寺家当主の公広を殺してその家名を絶ち、領内の統治には血と暴力で臨んだ観がある。反抗する国衆(名主)は容赦なく殺したといわれる。こうしたやり方に国衆や領民が一揆を起こしたが、戦いのプロにはかなうべくもなく、関係者七百八十二人が磔にされたというのだ。年貢の取立ても恐喝強盗に近い有様ではなかったかと思われる。
 その勝隆、朝鮮の役の帰路病没し、嗣子なく絶家となった。勝隆の悪政は七年続いた。
 文禄四年(1595)、藤堂高虎が宇和郡七万石の領主となった。高虎は翌年から丸串城跡に本格的な築城をはじめた。完成は慶長六年(1601)、関ヶ原合戦の翌年で、高虎は城の完成を見届けてから二十万石の太守として今治に移ったといわれている。
 慶長十三年(1608)、新領主として富田信高が入城した。幕藩体制における最初の宇和島藩主である。しかし長くは続かず慶長十八年には改易となった。信高の治世については戸田勝隆に近いものがあったとの見方もあり、善政家ではなかったようである。
 そして伊達秀宗の入城となるのであるが、藤堂高虎の治世によってわずかながら民力の回復がみられたとはいえ、戸田、富田による悪政によって宇和島の地と民は疲弊しきっていたと云ってよい。国づくりに失敗すれば改易にならぬとも限らない。豊臣家に縁ある大名となれば幕府は喜んで潰しにかかるであろう。
 伊達政宗はそうした事情を把握していたようで、秀宗の宇和島入りには六万両の資金と山家清兵衛(やんべせいべえ)という家臣をつけた。清兵衛は仙台藩の算用頭で財政に長けた逸材であった。

▲ 城址北側三の丸跡からの登り道である。城山全体が藩政時代から保護されてきた自然林となっており、多種多様な植生が見られるという貴重な場所でもある。
 山家清兵衛は惣奉行という立場で藩内の行政を取り仕切った。政宗直任の家臣ということで藩主秀宗さえもが一目おかざるをえなかったから、まさに藩政は清兵衛ひとりに一任されていたようなものだった。
 清兵衛の政策は領民に負担を強いるということをしなかった。税率は低く抑えられ、さらに貢納力のない者にはそれを免除するという領民保護の施策に徹していた。戸田勝隆の治世と比べるなら、領民にとってはまさに天国と地獄である。
 しかし、大坂城の修築や伊達本家への六万両の返済やらで藩の財政は厳しい状態が続いた。そこで清兵衛は家臣らの俸禄を削ることで窮状を切り抜けようとした。あくまで領民に過重な負担を強いることはしなかったのである。当然ながら家臣団の反発は否めない。その急先鋒となったのが秀宗の重臣桜田玄蕃であった。
 元和六年(1620)閏六月二十九日深更、刺客の一団が山家邸を襲った。真夏のことで清兵衛は蚊帳を吊って寝ていたが、刺客はその吊り手を切り落としてから動けぬようにして斬殺したという。享年四十二歳であった。刺客団は清兵衛の子供たちまでも殺してから立ち去った。
 暗殺の命令者が誰であったのか判然としないが、首謀者は桜田玄蕃であり、秀宗が上意討ちを認めたのではないかと見られている。

▲ 桑折(こおり)氏武家長屋門。宇和島藩家老の桑折家にあったものを昭和27年に移築したものである。現在では城址北側からの登城口となっている。

▲ 井戸丸。北側登城路の途中にあり、かつては門、矢倉が構えられて厳重に管理されていたという。

▲ 三之門跡を過ぎ、振り返ると石垣越しに天守閣が現れる。
  事件後、不思議なことに関係者が相次いで死に、寛永九年(1632)には桜田玄蕃も法事の最中に大風で寺が壊れて圧死してしまった。領民は清兵衛の祟りであるとして小祠を建てて清兵衛を祭った。
 承応二年(1653)、藩主秀宗は過ちを悟ったのか、鎮魂のために和霊神社を建立して清兵衛を祭った。清兵衛は神になったのである。
 その後も歴代の藩主は和霊神社を崇敬し続け、清兵衛の領民保護の精神は生き続けた。
 幕末には四賢候に数えられた八代藩主宗城(むねなり)が著名であるが、彼は藩自力で蒸気船を造らせたことでも知られている。
 さて宇和島城である。二代藩主宗利は寛文四年(1664)から同十一年にかけて城の大修復を行った。現存の天守閣はこの時に完成したものである。独立三層三階で小振りな天守閣であるが美しく均整のとれた造りである。
 九代藩主宗徳(むねえ)をもって明治を迎え、城の大半が取り壊された。現在はわずかに天守閣と上り立ち門を残すのみである。

▲ 二の丸から本丸に通じる一之門跡。

▲ 天守閣最上階から眺めた宇和島湾。

▲ 藤兵衛丸には八代藩主宗城によって立てられた武器庫である山里倉庫が移築され、現在は郷土館となっている。

▲ 藤兵衛丸から長門丸に至る雷門跡。

▲ 南側の登城路に立てられた城址のイメージ図。

▲ 上(のぼ)り立ち門。搦手口(南側登城口)の門で、天守閣とともに宇和島城の貴重な現存建造物である。
----備考----
画像の撮影時期*2008/01