大洲城
(おおずじょう)

                  愛媛県大洲市大洲           


▲ 大洲名物の放射霧でモノクロに霞む大洲城天守閣(平成16年(2004)に木造
復元によって再建された)。大洲盆地に溜まったこの霧は肱川を伝って伊予灘に流れ出る
のであるが、その際に河口では突風が発生して「肱川あらし」と呼ばれる現象を起こす。

霧の中の城

 四層の見事な天守閣をもつ大洲城。これだけの規模を有しながら、築城者が誰なのか、またその経緯はとなると明確な記録がないのか、よく分からないのである。まさしく、霧の中なのである。無論、小生ごときにその霧を晴らすことなど出来るはずもない。ただ、先輩諸氏の見解に頷き、往時を偲ぶのみである。
 大洲と呼ばれる以前、ここは大津と呼ばれていた。肱川を利用した港があって古くから栄えた地であったようだ。そして、この地を支配するために築かれたのが大洲城の前身となる地蔵ヶ嶽城であった。
 この地蔵ヶ嶽城を築いたのは関東の宇都宮氏の一流で宇都宮豊房という武士である。元徳二年(1330)に喜多郡の分郡守護として大津に入ったことによる。以後、この城は宇都宮氏の居城として二百年以上、八代続いた。
 最後の当主は豊綱という。豊綱は宇和郡の西園寺氏と敵対して、弘治元年(1555)に飛鳥城(西予市宇和町東多田)を攻めて西園寺家の嫡男公高を討取り、戦国武将として気勢を上げた。この争いは激化して西園寺勢が地蔵ヶ嶽城にまで迫ったが、伊予国守護である河野通宣(道後湯築城)の仲介を得て和睦となった。
 永禄元年(1558)、豊綱はその矛先を河野通宣の後を継いだ通直に向けた。この戦いは土佐の一条氏と毛利氏を巻き込む大きなものとなったが、結果は河野・毛利側の勝利に終わり、豊綱は河野氏に服属させられてしまった。
 永禄十年(1567)、長宗我部元親の大津進攻を受けて、豊綱は長宗我部に降った。一方の河野氏は小早川、吉川の毛利勢を加えた一万二千騎で地蔵ヶ嶽城に迫り、豊綱は再び河野氏に降った。もはや守護宇都宮氏の栄光も地に堕ちてしまったといえる。豊綱は小早川隆景の虜となって備後国に流されてしまった。
 天正元年(1573)、豊綱は地蔵ヶ嶽城に戻ったが、実権は家臣の大野直之に握られてしまっていた。
 その後、地蔵ヶ嶽城は毛利、長宗我部によって争奪が繰り返され、天正八年(1580)に至って大野直之を庇護する長宗我部の支配下に置かれた。
 天正十三年(1585)、長宗我部元親による四国統一間際に豊臣秀吉による四国平定戦が始まり、元親の降伏によって四国は豊臣政権によって支配されることとなった。
 この年、豊綱は備後三原で失意のうちに病没、宇都宮氏は滅んだ。
 豊臣軍として伊予を平定したのが小早川隆景で、その戦功により伊予三十五万石が与えられた。地蔵ヶ嶽城には隆景の養子秀包が入った。
 天正十五年(1587)、秀吉の九州平定によって小早川氏は筑前に移り、替わって秀吉古参の部将戸田勝隆が宇和・喜多十六万石の領主となってこの城に入った。勝隆の施政は暴政そのもので反抗する者には血の制裁をもって応えたという暴君であった。また、宇和の旧主西園寺公広を大津に呼び出して切腹させ、滅ぼしてしまうということもしている。

▲ 本丸の天守閣と多聞櫓で連結された台所櫓(右手前)と高欄櫓(左)。台所櫓は文字通り籠城時の炊き出しに備えたものであり、高欄櫓は2階外側に縁を廻したものである。両櫓とも安政4年(1857)の大地震で大破、台所櫓は安政6年に、高欄櫓は万延元年(1860)に再建された。いずれも昭和45年(1970)に解体修理された。
 文禄四年(1595)、戸田勝隆の病死によって藤堂高虎が宇和七万石で板島城(宇和島城)に入り、慶長三年(1598)には喜多郡が加えられて家臣の渡辺勘兵衛が城代として大津に来た。この頃、高虎は宇和島城の築城を進めており、地蔵ヶ嶽城の改築にも取り掛かったと云われている。
 慶長七年(1602)、高虎の養子高吉が大津に入った。そして慶長十三年(1608)、高虎移封により高吉は今治城に移った。
 慶長十四年(1609)、脇坂安治が関ヶ原の戦功により五万三千石で入城した。
 一説では脇坂安治が淡路洲本からの移封であったということで大津を大洲に改名したのだと云われている。また、大洲城の天守閣も洲本城から移築したものだとも云われている。無論、これは正確な記録が残されていないが故の推論であるが、移築の真偽はともかく、層塔型と呼ばれる天守様式は高虎が宇和島城を築いていた時期のものではないということである。したがって大洲城の縄張りや城下町の建設は高虎時代に進められ、天守閣は脇坂安治の時に建てられたと見ることができようか。

▲ 本丸井戸。直径約3.8m、国内最大級の本丸井戸といわれている。

▲ 二の丸の玉櫓及び鉄砲櫓跡。本丸の北側を防御する一郭である。

▲ 天守閣内に展示されている築城当時のジオラマ。
  元和三年(1617)、大坂の陣の戦功により加藤貞泰が六万石で入封、脇坂氏と替わった。その後、大洲藩は加藤氏が十三代続いて明治を迎えた。
 加藤氏による藩政は約250年続いたのであるが、他の多くの藩がそうであったように大洲藩も財政再建には苦しんだようである。藩自体の倹約は当然ながら、定免制という作柄に関係なく年貢を固定化する方法がとられている。これが良い方法なのかはよく判らないが、大洲藩では十九件の一揆が起きている。農民にとっては厳しい環境の藩であったようだ。
 他方、大洲藩は日本陽明学の祖である中江藤樹の出身藩でもある。陽明学は「知行合一」で知られる学問で、六代藩主泰衑(やすみち)によって延享四年(1747)には伊予で最初の藩校である止善書院明倫堂が開校されている。
 また、幕末期には国学も盛んになり、最後の藩主十三代泰秋(やすあき)以下早くから藩論は勤皇に統一されていた。慶応四年(1868)の大坂攻めでは先鋒となり、その後「武成隊」と称して甲府、奥州征伐に参戦して活躍した。

▲ 本丸西側の二の丸に建てられた中江藤樹の像。

▲ 苧綿(おわた)櫓。二の丸東端、肱川沿いに建てられている。天保14年(1843)再建、昭和34年(1959)解体修理された。苧とは麻のことで、衣類の保管場所であったともいわれている。

▲ 三の丸南隅櫓。明和3年(1766)の再建で、昭和40年(1965)に解体修理された。
----備考----
画像の撮影時期*2008/01