広島城
(ひろしまじょう)

国指定史跡、百名城

              広島県広島市中区基町       


▲ 昭和33年に鉄筋コンクリートによって再建された天守閣。本丸西北側からの望見である。

毛利広島城

 広島城を築いた毛利輝元は中国の戦国大名毛利元就の嫡孫である。輝元の前に嫡男隆元が元就の家督を継いだが、凡庸であったため実質的な毛利家の采配は元就が老身をおして執り続けた。永禄十年(1567)、隆元は四十五歳で他界した。隆元の嫡子であった輝元は元就の在世中は家督を受け継ごうとはしなかった。祖父元就の斬り従えた中国一円を束ねるには荷が重すぎたのである。

 元亀二年(1571)、元就が没した。いやでも輝元は毛利家の当主としての地位を引き継がねばならなくなった。輝元は祖父の築いた大毛利家をさらに躍進させるということよりも、滅ぼさぬことの方を第一として行動した。

 天正十年(1582)の備中高松城における羽柴秀吉軍との対峙、そして和睦、本能寺の変による秀吉軍の陣払いに対する追撃の制止と輝元は危ない橋を渡ることをしなかった。祖父元就の築いた毛利家を危うくするような暴挙は避け、家存続を第一としたのである。それが輝元の器量であったといえようか。

 そのことがその後の秀吉との仲を穏当なものとしたとも云えよう。安芸、周防、長門、石見、備後七ヵ国百二十万石という所領確定後は、輝元は忠実な豊臣大名として貢献し続けた。

 天正十六年(1588)、輝元は従四位、参議に任ぜられ、はじめて上方へ赴いた。この時、大坂城に立ち寄った輝元はその壮麗な城郭と活気あふれる城下町を目の当たりにして感動したに違いない。

「国を治めるためにはいつまでも山城を根城にしておってはならぬ。太閤殿下を見習うべし」
 輝元は帰国してその翌年四月、広島城の築城に取り掛かった。普請奉行は穂田元清(ほいだもときよ、元就四男)、二宮就辰(なりとき、輝元近臣)であった。

 城の縄張りをみると秀吉の聚楽第に似ている。つまりこの当時の最新の築城形態を求めたものであるといえる。しかも交通の要所にあり、海運の便にも配慮したことは大坂城の立地を模したものであろう。

 天正十八年、堀や城塁がほぼ完成し、翌十九年には天守が完成して輝元が入城した。その後も工事は続けられ、天守に続いて慶長四年(1599)には多聞櫓で繋がる小天守二つが完成した。秀吉はこの前年に他界していたが、輝元は五大老のひとりとして徳川家康と並ぶ豊臣政権の重鎮となつていた。そして最新鋭の城郭を有する大大名としての地位をも不動のものとしていた。

 しかし、その不動と思えた輝元の絶頂期は長くは続かなかった。慶長五年、輝元は関ヶ原の戦いに際し、安国寺恵瓊の勧めに乗って西軍の総大将となってしまったのである。結果は周知のごとく西軍石田三成方の敗北に終った。総大将として大坂城西の丸にあった輝元は抗戦を避けて、穏便に退去する道を選んだ。大坂城を楯にして毛利家を滅ぼすような暴挙に出ることは輝元には出来なかったのであろう。合戦から九日後の九月二十四日、西の丸接収役の福島正則、池田輝政らと入れ替わりに輝元は大坂城を退去した。

 家康は輝元の所領全てを没収するつもりであったが吉川広家の奔走によって周防、長門三十六万石がかろうじて毛利家に残された。そしてそれは毛利家万代の居城となるはずであった広島城から離れることなのであった。輝元の失意の有様いかばかりであったろう。

 だが、二百四十年の後、この毛利長州藩が討幕の中核となり、徳川家を江戸城から追い出すことになろうとは…。

福島正則入城

 さて、毛利家の退去した広島城には豊臣恩顧の武将でありながら三成憎しで家康に付いた福島正則が安芸・備後四十九万八千余石の太守として入った。云うまでもなく、防長二州に閉じ込めた毛利を監視させるためである。関ヶ原における戦功第一ともいえる正則であったが、その豪放な生き様が家康の性分に合わなかったのか、正則に対する徳川家の猜疑と警戒は家康亡き後も幕府に引き継がれていった。

 福島正則をはじめとする豊臣恩顧の諸大名に対する引き締め策として幕府は江戸城や名古屋城などの城普請に従事させるなどして財政的な拠出を強要していたことは広く知られている。最終的には福島家は改易させられてしまうのであるが、その間の経緯はともかくとして直接的に福島家改易の引き鉄になったのが広島城なのである。

 元和三年(1617)、広島は大雨のため、河川の堤が各所で切れて大洪水に見舞われた。この時、城内三の丸まで浸水して石垣が崩壊した。そこで正則は「武家諸法度」にのっとり、老中の本多正純に修復の許可を願い出た。ところがいつまで待てども許可が下りないため、正則の独断で修復工事をやってしまったのである。元和五年、一・二月のことである。三月、参勤交代のために江戸に入った正則は幕府から、無許可で城普請を行ったことを詰問された。正則は直ちに修復部分を破却させ、
「正純の術策にかかりしか」
 と悔やんだが後のまつりだったのである。

 六月、安芸・備後没収。津軽四万五千石に国替えの幕命が下った。七月、進んで謹慎の態度をとっていたためか幕府は信州川中島に四万四千石を与えてそこに移るように命じた。

 当然、広島城も明け渡さなければならない。豪勇で鳴った正則の家臣らである。幕府は不測の事態に備えて中国、四国、九州の諸大名に出陣を命じた。

 一方の広島城では城代家老の福島丹後守治重が家中四千人を集めて籠城していた。福島丹後は主君の許可なく城を明け渡すことは出来ないと突っぱね、一戦をも辞さぬ覚悟を見せた。

 幕府は福島丹後の要求をのみ、正則の直書を届けて無事開城させることができたのであった。

 開城に際して福島丹後以下侍大将、物頭らは裃姿で上使を迎え、諸事滞りなく明け渡しが済んだという。この福島家の城明け渡しの潔さはその後の模範となったことで知られている。

 それから四年後、福島正則は川中島の館に於いて六十四歳の生涯を終えた。

 福島家退城後、紀州和歌山城の浅野長晟が四十二万石で入封し、十二代続いて明治を迎えた。

 昭和二十年(1945)、原爆によって天守など城内の建造物は全て壊滅してしまった。

 現在の天守は昭和三十三年に再建されたものである。

 ▲ 二の丸への入口である御門橋と表御門。その右は平櫓である。この二の
丸に関連する建造物は平成六年までに木造によって復元されたものである。


▲ 本丸北側の内堀。

▲ 二の丸に復元された太鼓櫓。そして多聞櫓によって繋がる平櫓(左側奥)。

▲ 本丸東側の石垣と裏御門土橋。

▲ 日清戦争時、本丸に置かれた大本営の跡。

----備考----
訪問年月日 2006年8月17日
主要参考資料 「日本城郭総」他

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