竹田城
(たけだじょう)

                  兵庫県朝来市和田山町竹田           


▲ 天守台から南千畳を望見。竹田の町が濃い霧に覆
われると、竹田城跡は雲海に浮かぶ天空の城と化す。

つわものどもが
         夢のあと

 竹田城は城好きの人たちが、いや城好きならずとも、ここを訪れたならば必ず驚嘆し、そして絶賛する城跡である。季節と天候によっては城の周囲が雲海に変わり、その景観はまさに「天空の城」と呼ぶに相応しいものである。
 城跡には天守閣や櫓や門といったものは何一つない。ただ、石垣だけがそこにある。しんと静まった山上で、その石垣は黙って訪れる人たちを迎えてくれる。その石垣の間を歩きながら、訪れた人たちは知らず知らずのうちにその石垣たちと会話しているのである。遠い戦国のむかしに想いを馳せ、ここに生きたつわものたちのことを…。
 永享三年(1431)、但馬国守護の山名宗全(持豊)が丹波の細川氏、播磨の赤松氏に対抗するために、当所に築城を命じたのが竹田城のはじまりである。竹田の地は播磨から続く播但道(現・国道312号)と丹波からの山陰道(現・国道9号)が合流する要地で、但馬防衛の要ともいえるところである。
 築城には山名氏の被官で但馬の国人である太田垣光継があたり、13年の歳月をかけて完成させた。嘉吉三年(1443)の完成ということになる。この当時の竹田城は現在見られるような石垣の城ではなく、土塁を廻らせたものであった。
 初代城主には光継の孫光景がなった。以後六代百三十余年にわたり竹田城は太田垣氏の居城として続いた。
 応仁の乱(1467)では二代城主太田垣景近と嫡男宗朝が京都西陣の山名宗全のもとに、但馬の諸将とともに参陣している。この時、竹田城の留守を守ったのが次男宗近であった。応仁二年(1468)三月、有力諸将が京都に集結して空き家同然となった但馬を攻略しようと丹波守護である細川氏は守護代内藤孫四郎や長九郎左衛門らに命じて出陣させた。竹田城の留守将太田垣新兵衛尉宗近は丹波の国境近くまで出撃し、夜久野において魚鱗の陣で布陣する細川勢に突入して内藤らの大将を討取って撃退せしめた。この戦勝の報を受けた山名宗全は自身着用の鎧と将軍義満より下賜された太刀「御賀丸」を宗近に与えてその功に報いたという。
 戦国期、守護山名氏の存在も時とともに有名無実と化し、下克上によって但馬国内は山名四天王と呼ばれる四氏によって支配された。垣屋、八木、田結庄(たいのしょう)、太田垣の四氏である。竹田城の太田垣氏は二代景近の後、三代宗朝、四代宗寿、五代朝延、六代輝延と続く。
 永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて武力上洛を果たした。その翌年、木下藤吉郎秀吉が二万の軍勢を率いて八月一日から但馬に進攻、わずか十日間で十八の城を攻め落としたといわれている。この月の二十日頃には、秀吉は信長の伊勢攻略の先鋒となって出陣しているので、この時の但馬進攻がどの程度のものであったのかよく分からない。
 元亀二年(1571)、丹波の荻野直正(黒井城)の但馬進撃によって竹田城はその支配下に置かれたが、天正三年(1575)の明智光秀による丹波出陣に対応して直正は竹田城を去った。

▲ 二の丸から天守台および南二の丸を望見。竹田城の石垣(穴太積)は昭和46年(1971)から昭和55年(1980)にかけて修復された。
 天正五年(1577)、羽柴秀吉が信長の命を受けて中国攻めの大将となり、播磨に攻め込んだ。そして弟秀長をして播但道を北上させ、但馬へ進攻させた。秀長は三千二百余の兵を率いて岩洲城などを落としながら十月には竹田城に迫った。
 太田垣六代目城主輝延は秀長軍の攻城三日目に城を落ちて毛利方に走った。これは太田垣竹田城の終焉でもあった。
 竹田城の城代となった羽柴秀長は軍道の普請と竹田城の改築、および城下町の建設にあたった。現在見られる竹田城の石垣遺構はこの時からのもので、その工事は歴代城主によって引き継がれた。
 天正十年(1582)、秀長の部将桑山重晴が一万石で竹田城主となった。そして天正十三年(1585)、重晴は和歌山城三万石に移封となり、竹田城には赤松広秀が二万二千石で封じられた。
 赤松広秀(24歳)は嘉吉の乱(1441)で滅びた播磨守護赤松氏を再興した赤松政則の曾孫にあたる。もと播磨龍野城主で、天正五年の秀吉の播磨出陣の際に降り、乙城(龍野城の南約3`)に蟄居した。その後、龍野城主となった蜂須賀正勝の配下に属して各地を転戦、その武功により竹田城を与えられたのであった。
 広秀もまた秀長以来続けられている竹田城の改築工事を引き継いだ。また善政につとめ、領民から慕われた城主としても知られている。城主となってからも小田原城攻めや文禄・慶長の役に出陣して秀吉のために働き続けた。
 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦では広秀は西軍石田三成方に属し、本戦ら先立つ丹後田辺城攻めに加わった。しかし関ヶ原の本戦で西軍が敗北、広秀は竹田城に戻って徳川家康の沙汰を待った。
 その時、西軍方の鳥取城攻めの応援を因幡鹿野城主亀井茲矩から頼まれたのである。協力すれば家康に赦免を執り成すという。広秀がどのような気持ちで出陣したのか分からないが、ともかく鳥取城は落城した。
 しかし、戦後に広秀に伝えられた家康の命は切腹であった。城攻めにあたって鳥取の市中を焼いたということで家康の怒りにふれたということなのである。これは亀井茲矩が出火の罪を広秀に負わせたのだとも云われている。
 この年十月二十八日、鳥取の真教寺にて、広秀は弁解することもなく悠揚として切腹して果てた。享年39歳であった。
 竹田城も「仁政の君」と尊ばれた赤松広秀を最後の城主として廃城となった。

▲ 大手門口の城址碑と説明板。

▲ 城址碑のあった登城口を登り始めると櫓跡の石垣が姿を現す。

▲ 大手門跡からさらに石段を登ると三の丸に出る。三の丸からは深い谷越しに本丸が見える。

▲ 三の丸から二の丸に至る「武の門」。

▲ 二の丸から本丸へと登ると天守台が待っている。天守台に上がるために、はしごが立て掛けられている。

▲ 天守台から二の丸を望見。

▲ 南二の丸から見た本丸石垣と天守台。

▲ 南二の丸のさらに南が南千畳と呼ぶ広大な曲輪となっている。これは明治32年(1899)に南千畳に建てられた芭蕉の句碑で、「夏草や 兵どもが 夢の跡」と刻まれている。

▲ 本丸から南二の丸を望見。南二の丸に至る間にはくい違いのめずらしい櫓台跡や枡形虎口を経なければならない。

▲ 三の丸から見た雲海。この日、竹田の町は濃い霧に覆われていた。

▲ 北千畳から真東を望見。眼下の市街地は雲海によって隔絶され、まさに天上の世界に来たかのようである。

▲ 城址駐車場の「竹田城山門」。ここからは徒歩である。急峻だが近道を辿れば10分、平坦だが遠回りで行けば15分だそうだ。ちなみに私は大手門登城口まで車で行きました。ただし駐車スペースは3台ほどですので、ここの駐車場に停めた方が無難でしょう。

▲ 城址駐車場の一画には「山名氏・赤松氏 両軍陣歿諸霊供養塔」が建てられている。戦国時代、両氏は兵庫・岡山の各地で死闘を繰り返した。それから五百年、両氏の末裔によって鎮魂と遺徳顕彰のために建てられたものである。

▲ 霧が晴れた城下から城山を見上げる。

▲ JR竹田駅。駅舎内の観光案内所で、竹田城に関するグッズやパンフ、小冊子、小説などをゲットしましょう。駅の背後はもちろん竹田城跡の山です。この駅から歩いて登る方もいます。

▲早朝の竹田城(2014年5月再訪)。

▲朝靄の竹田城(2014年5月再訪)。

▲竹田城西側の立雲峡から望遠で撮影(2014年5月再訪)。
----備考---- 
訪問年月 2008年10月
 再訪年月日 2014年5月1日 
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「残月・竹田城最後の城主赤松広英」他