田辺城
(たなべじょう)

市指定史跡

              京都府舞鶴市字南田辺      


▲ 田辺城城門。平成4年(1992)に本丸西側(本来の場所では
ない)に復元された。内部は舞鶴市田辺城資料館となっている。

丹後の関ヶ原

 細川藤孝は天正三年(1575)及び天正五年(1577)から始まる丹波、丹後攻略に明智光秀とともに戦った。光秀と藤孝は連携協力して天正七年には丹波、丹後を平定した。

 天正八年(1580)八月、織田信長は丹波を明智光秀に、丹後を細川藤孝に与えてその戦功に報いた。

 細川藤孝は嫡子忠興と共に、それまでの居城であった勝竜寺城(長岡京市)を出て丹後入りし、直ちに新城の築城に取り掛かった。

 ここ田辺城と宮津城(宮津市)は同時期に築城が開始されたようである。そして宮津城を本城として忠興が入り、藤孝は田辺城を居城としたと思われる。曖昧な言い方になってしまったが、どちらの城に誰が城主となったのか諸説あって明確でないからである。ここでは田辺城資料館の説明をもとにして話を進めたい。

 田辺城は丹後街道と宮津街道の要衝の地にあり、城の東西は河川を天然の堀として北は海、南は沼地であったと云われ、難攻の城であったといえる。

 天正十年(1582)、盟友の明智光秀が織田信長を本能寺に滅ぼした。

 この時、藤孝は剃髪して信長の喪に服し、幽斎と名乗った。光秀からの援軍要請にも動こうとはしなかった。光秀に天下人たる資質を見出せなかったのであろうか。とはいえ、苦楽を共にしてきた年来の友に背を向けた幽斎の心は断腸の痛みにさいなまれていたに違いない。幽斎四十九歳、隠居して家督を忠興に譲った。

 明智光秀の末路は周知の如く、変から僅か十日余り後、山崎合戦で羽柴秀吉に破れ、落ち行く途中で土民に襲われてあえない最期を遂げた。

 秀吉時代、藤孝は紀州や九州の征伐に従軍して活躍した。秀吉の晩年には徳川家康とも親交をもった。

 慶長五年(1600)、田辺城主の忠興は三千余人を率いて家康に従軍、上杉征伐に出陣した。

 上方では家康の留守を衝いて石田三成が挙兵、家康打倒の旗を揚げた。忠興の妻ガラシャ(光秀の娘玉)が三成の人質作戦に抗して死んだのはこの時のことである。ガラシャの死は、細川家が家康側に付くことを明確にした行為となった。三成は直ちに細川攻めの軍勢を丹後に向けて発したのである。

 三成側の、つまり西軍の丹後攻めの軍勢は福知山城主小野木重勝を大将とする丹波、但馬などの近畿勢一万五千人であった。

 幽斎も直ちに戦の準備に取り掛かった。しかし、忠興の出陣によって国内には留守居の武士しか残っておらず、かき集めても数百人程度である。

 丹後統治のために幽斎は四ヵ所の城を設けていた。宮津城、峰山城、久美浜城そして田辺城である。そこで、兵を一ヶ所に集中させるために三城を捨て、田辺城に籠城することを決したのである。

 この時、幽斎は宮津城に居た。まず峰山城と久美浜城に急使を走らせ、自らは宮津城を焼き払い、海路田辺城に入った。

 田辺城に入った幽斎は直ちに兵糧、弾薬を集めて城に搬入させた。そして城の周囲にある樹木を伐採して見通しを良くした。

 ガラシャの死から三日目には西軍が丹後に入った。集まった城兵の数は五、六百であった。久美浜城と峰山城は西軍の攻撃によってはやくも炎上、落城した。

 西軍が現れる前、籠城仕度でごった返す田辺城に、豪勇をもって鳴る毛利家浪人で幽斎とも親交のあった三刀谷孝和が兵百余人を率いて入城した。陣場を借りて一旗上げようというのか、それとも友情のためか、何れにせよ寡兵での籠城を余儀なくされた幽斎らにとっては貴重な戦力となった。

 さらに城下の瑞光寺や桂林寺からも門徒や弟子らが駆け付けて城の守りについた。

 二十一日、城外の所々に小野木率いる西軍勢が陣所を構えた。早速、三刀谷隊が城を出て、敵陣に一撃を加え、他の隊も城外に打って出て西軍諸隊を撃退するなどして気勢を上げた。しかし西軍は万余の大軍である。この翌日には城を完全に囲まれ、その後の戦闘は堀や城壁、城門をめぐる戦いとなった。それでも、城方の防戦は凄まじく、西軍の死傷者は増すばかりであった。しかも西軍諸将のなかには幽斎の弟子もおり、彼らは空鉄砲で戦う振りをしていたという。小出吉政、谷衛友、川勝秀氏らがそうであったという。

 二十六日、西軍は力攻めを諦め、持久包囲戦に改めた。城方の勇猛果敢な防戦がそうさせたともいえる。しかし、田辺城は意外なことから開城に至ることになる。

 幽斎は武将であるとともに古今伝授の歌道の達人でもあった。幽斎が討死してしまえば歌道の正統が絶えることにもなるのだ。後陽成天皇の弟八条宮智仁親王は開城の使者を二度にわたり幽斎のもとに送ったが、幽斎は秘伝書を献上したのみで、自身は武人としての道を全うするとして開城を断り続けたのであった。

 ことの仔細を聞いた天皇は勅命を発した。西軍は囲みを解き、幽斎は開城すべし、と。

 八月十三日、勅命とあれば仕方がない、西軍の撤収を見届けた幽斎は開城して城を出た。幽斎以下城兵の全てが討死を覚悟した五十日であった。この日、城兵たちの顔には笑顔が戻っていたに違いない。

 この二日後、関ヶ原で家康率いる東軍が西軍に大勝した。忠興率いる細川勢は石田三成の本陣笹尾山を攻めて活躍した。

 戦後、細川家は豊前中津三十九万九千石に加増され、移封となった。後には肥後熊本五十四万石(熊本城)に封ぜられることになる。

 細川家と入れ替わりに丹後の国主となったのは京極高知である。高知はここ田辺城を本城とし、城と城下町を再建した。

 元和八年(1622)、高知の死去により丹後は三分割され、峰山、宮津、田辺に高知の子らがそれぞれ立藩した。田辺藩の初代藩主は高知の三男高三で三万五千石、高直、高盛と三代続いて但馬豊岡に転封となった。

 寛文八年(1668)、京極氏に替わり牧野親成が田辺城に入った。以後十代続いて明治を迎えた。

 ちなみに親成の祖父は康成であるが三河牛久保城主であった牧野康成とは別人である。無論、牛久保牧野氏の一族であることに変わりない。

▲ 昭和15年(1940)に建てられた二層の隅櫓。
「彰古館」と名付けられ、館内には錦絵が展示されている。


▲ 本丸西端に位置する天守台跡。古式穴太積であることから天正期に細川藤孝、忠興父子による建造であると云われている。

▲ 別の角度から見た天守台跡。天守台の周囲は水堀であったことが確認されている。

▲ 本丸跡に残る石垣と櫓台跡。

▲ 城門前に建つ「舞鶴公園」の石碑。田辺城は別名、舞鶴(ぶかく)城と呼ばれる。

▲ 本丸石垣と公園の様子。

▲ 城門をくぐると二層の隅櫓が目を引く。
----備考----
訪問年月日 2008年10月
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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