熊本城
(くまもとじょう)

国指定特別史跡、百名城

               熊本県熊本市本丸      


▲ 熊本城の大天守と小天守。城内の建造物はすべて白と黒の諧調で
統一されている。それはフォーマルスーツの紳士のようでもあり、また黒糸縅
の鎧をまとった戦国武将の風格をも想わせる。まさに武と美の名城といえよう。

武と美の名城

 熊本城は加藤清正がその精魂を込めて築き上げた城である。

 清正は豊臣秀吉子飼の武将で、幼少より秀吉に仕えて各地の戦場を馳せ、天正十一年(1583)の賤ヶ岳の合戦では七本槍の一人に数えられた実戦肌の武将である。

 天正十五年(1587)、秀吉の九州平定戦に出陣して宇土城(宇土古城/熊本県宇土市)を守り、翌年の肥後国衆一揆に際しても宇土城に陣を置いて一揆残党の摘発にあたった。

 この一揆は九州平定後に肥後国の領主として隈本城(熊本城の前身)に入った佐々成政の失政によるもので、成政はその責を負わされて切腹させられた。同時に一揆方の摘発処刑も徹底して行われ、五十二人といわれる国衆のほとんどが滅ぼされた。成政の失政に端を発した一揆であったが、結果的には国内に割拠する在地領主を一掃した形となり、その後の統治支配が容易になったといえる。

 秀吉は佐々成政の後、肥後国を二分して加藤清正と小西行長に与えた。小西行長は南半国十四万六千石で宇土城に入り、加藤清正は北半国十九万五千石で隈本城に入った。

 この隈本城は大永・享禄の頃(1521-32)に熊本市北部に所領を持っていた国人鹿子木親員の手に成るもので守護菊池氏を迎えるなどして城の重要性は高かった。それ以前、現在の熊本城の東端高台に築かれていた千葉城があった。鹿子木氏は千葉城が手狭であったために隈本城を築いたといわれている。場所は熊本城本丸の南西坪井川沿いの現在の古城町の一帯であった。

 天文十九年(1550)隈本城は大友氏によって陥落させられ、新城主として菊池一族の城親冬が入った。親冬の代は大友氏に属していたが、次の親賢の代になると島津氏と繋がり、大友方との戦いが続いた。天正九年(1581)、親賢が病死し、島津義久から一字を貰った久基が七歳で継いだ。天正十三年(1585)、肥後国は島津氏の支配下となったが、天正十五年(1587)豊臣秀吉の大軍を前にして久基は降伏開城した。

 秀吉は二晩隈本城に泊まり、この城を名城と評した。島津氏を降した後、佐々成政に肥後一国を与えて帰還した。

 成政が隈本城に入ったのはこの時で、秀吉は肥後の国衆五十二人の所領を安堵、成政には三年間は検地を実施してはならないと命じた。しかし成政は入国間もなく検地を強行した。これが国衆の反発を生み、一揆に発展したのであった。

 天正十六年(1588)に隈本城主となった加藤清正は城の増改築を進め、十九万石に相応しい城造りに取り掛かった。本丸には大小の天守や御殿が建てられたというが、現在その遺構は判然としていない。

 文禄・慶長の役で清正は朝鮮に渡り、獅子奮迅の活躍をした。慶長二年(1597)から三年にかけて戦われた蔚山城の防衛戦では苦しい状況下で戦い抜き六万ともいわれる明・朝鮮軍を二度も撃退している。この戦いの経験が後の熊本城の築城に生かされたことは当然であろう。

 慶長三年八月、秀吉が亡くなった。十月になると在鮮の日本軍は撤収にかかり、清正も十二月には帰国した。帰国後、清正は直ちに新城の築城に取り掛かったと云われる。これが現在見られる熊本城となるのである。幾多の戦場を経験した清正の目には隈本城の城としての限界が見えていたに違いない。また秀吉亡き後の大乱を予見していたのであろうか。現実的には石田三成派に属する宇土城の小西行長に対抗する必要性もあったと思われる。

 慶長五年(1600)、関ヶ原合戦で加藤清正ら武断派は徳川家康方に付いて勝利した。この功により清正は肥後一国五十四万石の大名となった。築城工事はその後も間断なく続けられた。武者返しと呼ばれる石垣の高さや反り、堀の深さ、籠城に備えての多数の井戸(120ヶ所)、畳には芋茎や干瓢を入れての兵糧対策等々、築城には清正の英知と全精力が傾注された。まるで天下に喧嘩を売るような勢いであった。一説には豊臣秀頼を迎えて天下の大軍を相手に戦うことも考えていたのではとも云われている。

 慶長十二年(1607)、城が完成し、地名が熊本と改められた。隈を勇猛な熊に改めたのである。武人としての清正の気概が伝わってくる。

 その清正も不死身ではなかった。慶長十六年(1611)、五十歳で亡くなった。その三年後に大坂冬の陣、そして夏の陣となり、豊臣家は滅んだ。清正の後を継いだ忠広は寛永九年(1632)に突如改易され出羽国庄内藩預かりとなり、加藤家は実質的に滅ぼされた。理由は諸説あるが、幕府の目的は豊臣系大名の粛清であったことはいうまでもない。肥後国における加藤家の支配は四十五年で終わった。

 新藩主として熊本城に入ったのは豊前小倉三十六万石であった細川忠利である。寛永九年十二月九日であった。忠利の父は忠興で母はガラシャ夫人である。忠利は熊本入城に際して清正の位牌を奉じ、門前では額づいて拝領の挨拶をするなどして清正崇敬の姿勢を示したという。

 忠利以後も清正崇敬の姿勢が貫かれ、このことが細川家による肥後統治を保ち続けさせたのだといえよう。細川家は十一代続いて明治を迎えた。

 維新後、他の多くの城と同様に熊本城も取壊しが進められ、多くの建造物が撤去された。明治四年(1871)には鎮台が置かれ、二の丸には兵舎が建てられた。軍用地となったことで民間による開発はされずに済み、その後の遺構は小規模の破壊に止まったといえる。

 明治九年(1876)十月、神風連の乱が勃発して二の丸の兵舎などが襲われ、放火されるなどした。

 その四ヵ月後の明治十年二月、西郷隆盛以下一万二千の薩軍が鹿児島を出発した。
「今般政府へ尋問の廉有之…」
 というもので、いわゆる西南戦争の勃発である。

 西郷らは熊本城の鎮台司令長官谷干城少将宛てに薩軍が城下を通行する際には整列して指揮を受けよとの文書を発した。署名は陸軍大将西郷隆盛である。

 鎮台では薩軍の北上を阻止するために熊本城籠城の方針が決せられた。兵力は三千五百であった。十九日から二十一日にかけて天守閣や本丸御殿が焼かれ(失火、放火ともいわれる)、城下市街も焼き払われた。これは敵の目標となる建物や隠蔽物を取り除くためのもので清野作戦と呼ばれる。

 熊本城の攻防戦が始まったのは二十二日早朝からで翌二十三日にかけて薩軍の総攻撃が続けられた。しかし籠城軍の守りは堅く、薩軍は三千の兵を包囲に残して北進することを優先させた。

 熊本城攻撃の指揮を執っていた桐野利秋は責任を取る形で西郷にその権限を戻した。
 西郷は、
「清正公といくさしちょるごたる」
 と云い、桐野は、
「清正に負けもした」
 と云ったという。
 加藤清正も二百七十年の後に薩摩の軍勢を相手にこの城が戦うことになろうとは思ってもいなかったろう。

 その後、北進した薩軍と官軍が田原坂で激闘を交えることになり、包囲軍の兵も田原坂方面に出るなどして兵数が減り続けた。このため三月下旬から坪井川を堰き止めて城下を水没させる水攻めを実施した。これは清正の防衛策で坪井川と井芹川の合流点の下流で堰き止めると城下が水没するという伝承によったといわれている。

 四月十四日、官軍の城下突入によって熊本城は五十余日ぶりに解放され、薩軍は人吉(人吉城)へと敗走していった。

 以後、昭和二十年(1945)まで熊本城は陸軍用地として続き、戦後は公園化が進められた。昭和三十五年(1960)には天守閣が鉄筋コンクリートで再建され、その後も多くの櫓や門が復元、平成二十年(2008)には本丸御殿も復元された。時とともに往時の熊本城がよみがえりつつある。

▲ 天守閣西側の平左衛門丸に建つ宇土櫓。
 ▲ 西出丸北西の戌亥櫓。
▲ 西出丸西側の大手門から戌亥櫓を結ぶ長大な長塀。

▲ 西出丸から堀越しに見た宇土櫓と続櫓。

▲ 本丸大天守の石垣。天守の桁が石垣から張り出しているが、これも熊本城の特色のひとつである。

▲ 復元された本丸御殿。

▲ 大天守南側。手前石垣上の建物は本丸御殿の一部である。

▲ 竹の丸出口付近の石垣群。前方に見える建物は飯田丸五階櫓である。

▲ 竹の丸南側の坪井川沿いの長塀。

▲ 行幸橋南側に建てられている加藤清正の像。

▲ 特別史跡「熊本城」の碑。坪井川沿いの下馬橋跡に建っている。

▲ 熊本城の東、高橋公園に建つ谷干城の像。鎮台司令長官として熊本城に籠城、薩軍の城攻めに耐え抜いた。

▲ 二の丸の北端、二の丸御門跡の石垣。
----備考----
訪問年月日 2009年5月2日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ