坂本城
(さかもとじょう)

            滋賀県大津市下阪本3    


▲坂本城は織田信長の比叡山焼き討ち後に、その監視と湖上水運
支配のために築城された。信長の命を受けた明智光秀によって築かれ
たこの城は安土城と並ぶ豪壮華麗なものであったと伝えられている。
(写真・二ノ丸中堀付近に建つ城址碑。)

時は今、俺も男の意地がある

 元亀二年(1571)九月、織田信長は浅井・朝倉に加担した比叡山を三万の軍勢をもって焼き討ちした。
 焼き討ち後、信長は坂本在陣の明智光秀に滋賀郡を与え、比叡山の監視と湖上水運の支配のために築城を命じた。これが坂本城である。十二月、光秀は将軍足利義昭に暇請いして決別、信長の家臣として生きる決意を示している。
 元亀三年(1572)三月、築城普請の一方、光秀は信長に従って木戸城(大津市木戸)、田中城(高島市安曇川町)を攻め、四月には交野城(大阪府交野市)救援のために河内へ出陣した。さらに七月は信長に従い、堅田水軍衆の猪飼氏や居初氏を率いて湖北沿岸(海津、塩津、竹生島)の浅井方を攻撃するなどして東奔西走している。
 元亀四年(1573)六月に坂本城にて連歌会が催されており、この頃には琵琶湖のの水を引き入れた水城としての坂本城がほぼ完成していたと見られている。天守も豪壮華麗なもので大天守と小天守を持った連結式天守であったものと思われ、城郭史上画期的なものであるが残念ながらその姿を伝えるものがなく、復元は困難とされている。フロイスの日本史には「安土山に建てたもの(安土城)につぎ、この明智の城ほと有名なものは天下にない」と記されるほどであった。
 この年、光秀は反信長の挙兵に踏み切った足利義昭の攻撃に出陣、室町幕府は実質的に滅亡した。
 天正三年(1575)六月、光秀は信長より丹波・丹後の平定を命じられる。
 この年から天正七年(1579)にかけて細川藤孝らの協力を得つつ丹波・丹後の平定を成し遂げる。この間、天正六年(1578)頃に丹波攻略の拠点として亀山城(京都府亀岡市)の築城をはじめた。
 天正八年(1580)、光秀は信長より丹波を与えられるが、坂本城を居城とし続けた。
 天正十年(1582)三月、光秀、甲州征伐に出陣。武田滅亡後の五月、信長より安土城にて徳川家康の饗応役を任されるも三日後に中国出陣を命じられ、坂本城に帰城した。二十六日、光秀は兵を率いて丹波亀山城に向かい、二十八日に愛宕山に参詣して連歌会を催した。この数日の間に光秀は信長打倒の意を決したのであろうか。光秀の胸中に沸き立ったものは何であったのだろうか。
 六月二日早暁、光秀とその軍勢は本能寺の信長を襲い、二条御所の織田信忠を滅ぼした。続いて安土城に向かったが瀬田城主山岡景隆の予想外の抵抗のために進撃を阻まれ、夕刻に至り坂本城に入った。その後、瀬田橋を復旧して安土城に入り、再び坂本城に戻り、そして上京して鳥羽方面に出陣と席の温まる間もなく味方の掌握に懸命であったが、十三日に山崎合戦で羽柴秀吉に惨敗、坂本城へ落ち行く途中の小栗栖で横死してしまった。本能寺の変からわずか十一日で光秀の反乱は潰えた。
 光秀の死の翌十四日、安土城を守っていた明智秀満(光秀の娘婿)は光秀の妻と自分の妻の居る坂本城に向かった。大津まで来るとすでに秀吉軍が進出しており、行く手をさえぎられた秀満は騎乗のまま琵琶湖に乗り入れ、そのまま坂本城へ帰り着いたとの逸話(明智左馬助湖水渡り)がある。

 十五日、秀吉方の先鋒堀秀政とその軍勢が坂本城を包囲した。秀満は天下の名物、名宝を秀政に渡した後、光秀の妻子とわが妻を刺し、天守に運び込んだ火薬に火をかけて自害した。
 六月二十七日の清州会議で滋賀・高島二郡が丹羽長秀の所領となる。長秀は直ちに坂本に赴いて城の再建に取り掛かった。
 天正十一年(1583)四月、秀吉は柴田勝家を北ノ庄城に滅ぼした後、丹羽長秀に若狭、越前、加賀半国合わせて百二十三万石を与えた。
 新たに坂本城主となったのは秀吉家臣の杉原家次で、滋賀・高島・神崎の三郡三万二千百石を領知した。しかし、この年の暮頃には家次が発狂したとの風聞が伝えられ、そのためか瀬田城に入っていた浅野長吉が坂本城主となっている。
 天正十四年(1586)、秀吉は坂本城の戦略価値が無くなったとして新たに大津城を築城した。浅野長吉も大津城主として転出し、坂本城は廃城となった。天下の耳目を集めた戦国の名城も時代の流れと共に消え去ってしまった。

▲坂本城跡公園の歌碑「光秀(おとこ)の意地」。唄は鳥羽一郎さんである。「美濃に生まれて 近江に賭ける 坂本城(しろ)が命の 男の夢を 心変わりの 信長様に 義理も恩義も 情けもすてて 俺も男の 俺も男の 意地がある」の歌詞に胸打たれるのは私だけではないだろう。

▲国道161号沿いの坂本城跡公園入口に建つ大きな城址碑。

▲坂本城跡公園内には光秀像や説明板、歌碑などが並んで建っている。

▲明智光秀公の像。

▲説明板の縄張図。

▲光秀像の隣に建つ歌碑。

▲本丸跡はキーエンス研修所の敷地となっている。

▲大津市教委による坂本城本丸跡の碑。キーエンス研修所前に建っている。

▲二ノ丸中堀付近に建つ城址碑と説明板。

▲明智塚。坂本城落城に際して光秀の脇差名刀の郷義弘や宝器物を埋めた跡であり、明智一族の墓所であると伝えられている(説明板より)。

▲大津市打出浜の琵琶湖文化館近くに建つ「明智左馬之助湖水渡り」の碑。

▲打出浜から坂本方面を望む。山崎合戦の翌日、安土城にいた明智秀満は坂本城へ戻ろうとしたが、ここまで来ると秀吉軍のために陸路を遮られたために琵琶湖に乗り入れて帰城したという。

▲坂本城跡公園内の歌碑に描かれている湖水渡りの絵。
----備考----
訪問年月日 2017年1月4日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「大津の城」他

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