瀬田城
(せたじょう)

            滋賀県大津市瀬田2    


▲瀬田城は室町期に山岡氏の居城となった城で、京都への入口である
瀬田橋を押さえる要衝の城である。山岡景隆は本能寺の変に際し、瀬田橋を
焼いて信長への忠義を崩さず、明智光秀の進撃を妨害したことで知られる。
(写真・県道脇に建つ城址碑。)

固く義を執りて応ぜず

 瀬田の唐橋と呼ばれる瀬田川に架かる橋は明治に至るまで唯一のものであった。架橋の時期も古く、壬申の乱(671)当時には合戦の舞台として登場している。古来より東から京都への関門として重要な戦略拠点であったのだ。その要衝の地に築かれたのが瀬田城である。

 瀬田城主である山岡氏の祖は甲賀郡毛枚(もびら)邑(甲賀市甲賀町毛枚)を発祥地とする毛枚太郎景広とされている。景広の玄孫景通が栗太郡大鳥居(大津市上田上大鳥居町)に移り、景通の曽孫資広の時に瀬田へ進出した。時期は室町時代の永享年間(1429-41)のことである。

 勢多秀昌(詳細不明)の支配する瀬田邑を平定した資広は山田岡(瀬田城址の南約3kmの大日山)に城を築いて居城とした。この時に山田岡の一字を略して山岡を名乗ったと言われている。

 山岡資広が瀬田城をいつ築いたのかは定かでないが、後に嫡男景長に瀬田城を譲って瀬田川西岸に石山城(瀬田城址の南西約1km/大津市石山寺付近)を築いて移ったとされる。

 瀬田城主となった山岡景長は六角氏(観音寺城)に属し、江南の旗頭として活躍した。その後、代を重ねて永禄期(1558-70)には美作守景隆が城主となっていた。

 永禄十一年(1568)、足利義昭を奉ずる織田信長による武力上洛戦が始まった。怒涛の織田勢の前に進撃路の諸城は次々と陥落、六角氏の本拠観音寺城も落城した。瀬田城の山岡景隆は織田方の降伏勧告に従わなかったために攻撃を受けて大和国柳生に退いたと言われる。江南の旗頭としての意地がそうさせたのであろうか。しかし、景隆は間もなくして信長への臣従を誓い、瀬田城に戻ったものと思われる。

 元亀元年(1570)、朝倉氏討伐の失敗(金ヶ崎の退き口)後、京都から岐阜城への帰途に瀬田城(5月12日)へ寄っている。さらに十二月にも比叡山に立て籠もる浅井・朝倉との対峙が和睦となった際に信長は瀬田城に引き上げている。山岡景隆の忠誠に信長が信頼を寄せていたものといえよう。

 元亀三年(1572)四月、将軍足利義昭の石山寺(山岡氏との関係が深い)参詣に景隆も従う。義昭の石山寺参詣は反信長挙兵のための城地検分であったと見られている。

 元亀四年(1573)二月、武田信玄の三方原合戦勝利と三河侵攻を打倒信長の好機とみた足利義昭は山岡景隆の弟で幕臣に取り立てていた山岡景友に挙兵を命じた。景友は山城半国守護に任ぜられるほどに義昭の信頼を得ていたのである。景友は石山寺近くの石山城(旧来の山岡氏の石山城と同一かは不明)に伊賀・甲賀衆を集めて決起した。

 信長は柴田勝家、明智光秀らの軍勢をもって石山城を攻撃、二日で落城させた。この時、瀬田城主の山岡景隆の動静は不明であるが、その後の宇治槇島における義昭挙兵の際には織田方として出陣しており、一貫して信長方であったのは確かであろう。

 その後も景隆は信長の越前朝倉攻め、紀州根来攻めに参陣し、天正三年(1575)には信長の命により瀬田橋架橋に携わっている。

 天正十年(1582)六月、本能寺の変。景隆は瀬田橋を焼き落として安土城に向かう明智光秀の進軍を妨害した。その際に光秀から誘いがあったがこれを断り、山中へ退いた。光秀は秀満に橋の修復を命じて坂本城に待機、三日後に安土城に入ったが、この遅れがその後の大勢に影響を与えたことは間違いない。

 甲賀に退避した景隆は弟景祐と共に三河へ脱出する徳川家康一行の先導を務めたという。

 光秀敗死後、山岡景隆は瀬田城に戻ったが、天正十一年(1583)の賤ヶ岳合戦の際に柴田勝家に内通していたことで瀬田城を追われることになってしまった。景隆は先祖の地甲賀郡毛枚邑に隠退して天正十三年(1585)に没した。

 合戦後、瀬田城には浅野長吉(長政)が入ったが短期間のうちに坂本城に移り、城は荒廃したものと思われる。

 その後、関ケ原合戦(1600)時に西軍毛利氏によって瀬田橋近くに築砦されたようであり、大坂夏の陣(1615)の時には徳川方が京都付近の庄屋の妻子を人質として瀬田城に収容したと言われるが、それが山岡氏の瀬田城であったのかは不明とされている。

 江戸期の貞享元年(1684)、天寧和尚が荒廃した城跡を膳所藩主より賜り一庵を建て、臨江庵と名付けた。


▲瀬田川と瀬田唐橋。現在、瀬田川に架かる橋は鉄道、国道
高速道路等数多いが、明治期まではこの唐橋のみであった。


▲道路脇に建つ城址碑。江戸期に城跡に建てられた臨江庵跡には現在はマンションが建っている(石碑裏の建物)。遺構は残されていないようだ。

▲「勢多古城址碑」と「瀬田城趾」碑。古城址碑には山岡氏の業績が記されており、山岡景隆が信長への恩義から「固く義を執りて応ぜず」と光秀の勧誘を断ったことが刻まれている。

▲今でも交通の要所である瀬田唐橋。
----備考----
訪問年月日 2017年1月4日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「大津の城」他

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