掛川古城
(かけがわこじょう)

                   掛川市掛川          


▲掛川古城は今川氏が遠江回復の拠点として築いたことにはじまる。
その後、掛川城が築かれたが、その出城として維持され続けた。
 (写真・本曲輪跡の大猷院殿霊廟)

掛川城攻防の天王山

 応仁の乱(1467)に於いて東軍に属した駿河の今川義忠は西軍斯波氏の領国となっていた遠江の回復のために、その前線拠点として家臣朝比奈泰熙(やすひろ)をもって築城したのがこの古城のはじまりである。時は文明初期(1470年代)の頃といわれている。

 その後泰熙は至近の龍頭山に新たな築城をはじめた。これは現在の掛川城の前身となるものであった。この城は通説では永正十年(1514)完成となっているが大永二年(1522)に掛川城に滞在したことのある連歌師宗長の手記には「普請の最中」とあることからかなり長期間に渡って工事が進められていたようである。

 ここ天王山(子角山/ねずみやま)の古城は新城の出城として維持されていたようで、永禄十一年(1568)十二月からはじまった徳川家康による掛川城攻撃の際には今川方によって固く守られていた。

 翌年一月十二日、家康は掛川城攻略の足掛りにすべく天王山に対して猛烈な攻撃を仕掛け、城兵を蹴散らして奪取に成功した。以後、家康はここを掛川城攻略の本陣地としたのである。

 五月、掛川城和議開城。天王山の古城は無用のものとなった。

 それから約九十年後の明暦元年(1655)、時の掛川城主北条氏重によって徳川家光の霊牌が勧請され本曲輪跡に霊廟が建てられた。大猷院殿霊廟という。

▲ 本曲輪東側に残る土塁。

 ▲ 掛川城天守から望見した天王山(子角山)。
----備考----
 訪問年月日 2006年7月15日
主要参考資料 「静岡県の中世城館趾」他

トップページへ遠江国史跡一覧へ