川島城
(かわしまじょう)

                   徳島県吉野川市川島町川島       


▲ 川島城の二の丸跡の東に建てられた模擬天守。本丸跡はこの
西(左)側にあり、吉野川を直下に見下ろす岩山となっている。

阿波の西押さえ

 元亀三年(1572)七月、勝瑞城の三好長治は家臣篠原自遁の讒言を真に受けて無二の忠臣と云われた篠原長房をその居城上桜城に攻め滅ぼした。
 長治はこの戦いで戦功のあった川島兵衛進惟忠にこの付近二百貫の地を与えた。
 川島兵衛進は上桜城の北、吉野川に沿った岩山の上に城を築いて居城とした。これが川島城のはじまりである。
 天正七年(1579)十二月、長宗我部方に降った岩倉城の三好康俊の謀計によって勝瑞方の軍勢が脇城外で壊滅的な大敗を喫した。川島兵衛進も一類を率いて勝瑞方の陣中にあったが多くの将兵とともに戦場に斃れた。
 無主となった川島城はこの合戦後どうなったのか分からないが、天正十三年(1585)に蜂須賀家政が阿波一国の大名として入国すると、重臣林道感能勝が兵三百を率いてここに駐屯した。いわゆる阿波九城のひとつとして阿波西部に睨みを利かす重要な城に指定されたのである。
 麻植郡五千五百四十石を領知して川島城の新城主となった林道感は軍略に優れた武将であるとともに築城家としても知られている。この川島城も道感の手によってより堅固な城砦に修築されたことと思われる。また、徳島城の縄張は道感と武市常三(信昆)の手に成るものである。
 道感は九州征伐、朝鮮の役に従軍して戦功を上げた。八十歳の高齢となってからも大坂の陣に軍監として従軍、活躍している。元和二年(1616)没、享年八十三歳であった。
 一国一城令により阿波九城が廃されたのは寛永十五年(1638)になってからであるが、この川島城もこの時に廃城となった。
 廃城後も城跡には藩の役所が置かれ、幕末期には短期間ながらも幕府陸軍総裁となった十三代藩主蜂須賀斉裕がここに訓練所を設けて洋式訓練を行ったと云われている。

▲ 吉野川の堤防から見た本丸跡の岩ノ鼻。明治から大正にかけて、吉野川の堤防工事のために本丸周辺の岩が使用されたためにその姿は大きく変わったといわれている。
 ▲ 川島神社の建つ一帯が二の丸跡である。
▲ 川島神社の社殿前を西に行くと小高い丘となっている。かつての本丸跡である。

▲ 「岩ノ鼻」と呼ばれる本丸の先端部分から眺めた吉野川。
----備考----
画像の撮影時期*2010/01

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