勝瑞城
(しょうずいじょう)

                   徳島県板野郡藍住町勝瑞          


▲ 勝瑞城跡。この堀は城址北側のもので、堀の右側が本丸跡である。発掘
調査の結果、16世紀後半に造られて短期間の内に廃絶されたものと考えら
れている。おそらく長宗我部勢との戦闘に備えて城砦化されたものであろう。

細川・三好、
       栄枯盛衰の足跡

 勝瑞城の創築、というより勝瑞に守護所が置かれた時期と位置に関してはまだ明確とはなっていない。
 城館関係の資料では細川頼春が建武三年(1336)に秋月城から勝瑞城に移ったとあり、または細川頼之の細川清氏討伐後に阿波へ入った詮春が貞治二年(1363)秋月から勝瑞に移ったとされている。また勝瑞の名は、兄弟な力を持つ清氏軍を奇跡的に撃滅した頼之が戦勝を祝って名付けたものと言われている。
 学術的には現在のところ十五世紀に細川氏が勝瑞に守護所を置いたとし、八代守護細川成之もしくは七代持常の頃としている。
 この十五世紀中頃、応仁の乱(1467)が勃発、全国的な戦乱の時代となってゆく。京都では細川氏が管領となって権力を欲しいままにし、阿波守護細川氏も積極的に中央政権との関わりを深めていった。京都の管領屋敷を上屋形と呼び、勝瑞の守護屋敷を下屋形と呼んだのもこうした関係の深さを物語っている。同時に、勝瑞の街も京文化の流入によって大きく発展した。
 永正四年(1507)六月、管領細川政元が養子澄之派によって謀殺された。政元には子がなく、九条家から澄之を相続者として養子に迎えていたのであるが折り合いが悪く、勝瑞の守護細川義春の子澄元を養子とし、澄之を廃嫡とした後のことである。
 政元の死後、澄之・澄元両派の争いが京畿を中心に激しく展開された。この「両細川の乱」に細川高国がからみ、その争いはいつ果てるともなく続くことになる。
 さて、阿波出身の澄元を擁して活躍したのが阿波守護家の重臣三好之長であった。之長、澄元没後は三好元長(之長の孫)が晴元(澄元の子)を擁して上洛を果たすなどして三好氏の台頭は著しくなってゆく。しかし争いの種は尽きることなく、元長は晴元によって滅ぼされてしまった。
 元長の後登場するのが長慶である。天文十八年(1549)、長慶は上洛を果たし、将軍義輝と管領細川晴元を追放した。とはいえ、将軍や管領を滅ぼしてしまうというのではなく、あくまでも傀儡化による実権の掌握を目指していたのである。
 こうしたかたちの下克上はやがて三好氏の家臣松永久秀の台頭を招き、京における三好氏の勢威は減退してゆくこととなる。
 一方、勝瑞では守護細川持隆と長慶の弟義賢が不和となり、天文二十一年(1552)に義賢が持隆を謀殺(勝瑞騒動)して真之(持隆の子)を守護に立てた。勝瑞でも傀儡化が起き、実権は三好氏に移ったのである。
 永禄五年(1562)、反三好勢力によって苦境にあった長慶を援けるために義賢は阿波勢を率いて岸和田に進出した。ところが久米田の合戦で討死してしまった。
 便りの義賢を失った長慶も永禄七年(1564)に失意のうちに病没した。

▲ 城址本丸跡には享保年間(1716-36)に移された見性寺が建っている。当寺は三好家の菩提寺でもある。
 勝瑞では義賢の後を子の長治が継いだ。長治を補佐したのは義賢の重臣であった篠原長房である。長房は織田信長の畿内進出後は信長に臣従して三好家の存続を模索していたと言われている。傀儡化の下克上を行わなかった長房はこの時代には貴重な忠臣であったといえる。しかし、一族の篠原自遁の讒言によって長治と細川真之の軍勢に攻められることとなり、居城の上桜城で自害して果てた。元亀三年(1572)のことである。
 忠臣を自らの手で葬った長治の施政は法華宗の強要などの暴政となり、守護真之との関係も悪化して国内は乱れはじめた。
 天正三年(1575)になると土佐の長宗我部元親による阿波攻略がはじまり、まず宍喰城が落とされ、同五年には海部城日和佐城が落ちた。
 この間に細川真之は家臣一宮成助らと共に長宗我部に通じて勝瑞を去り、長治は孤立を深めていった。天正五年(1577)三月、荒田野の戦いで長治は長宗我部の支援を受けた真之らに敗れ、自害して果てた。
 天正六年(1578)、長治の弟で讃岐の十河家を継いでいた存保(まさやす)が勝瑞に入ったが重清城の戦いで長宗我部勢に敗北、讃岐へ退去した。天正九年(1581)、存保は信長の支援を得て再び勝瑞に入った。
 現在の勝瑞城跡に残る堀や土塁の遺構はこの頃に存保によって構築されたものと見られている。
 天正十年(1582)五月、一族の三好康長が信長の四国征伐の先陣として阿波に上陸、存保の期待が膨らんだ。ところが翌月、本能寺の変で信長が斃れ、四国征伐が不発に終わってしまったのである。
 八月、長宗我部元親は二万三千の大軍で勝瑞城に迫った。存保は五千で出陣したが、中富川の合戦で大敗、勝瑞城に籠もった。翌月、ひと月足らずの籠城で存保は開城して讃岐へ退去してしまった。
 合戦後、勝瑞城は長宗我部元親によって破却され、その後の蜂須賀氏による徳島城の築城に際しても石塁その他の遺構が持ち去られ、二百二十年に及ぶ細川氏、三好氏の栄枯盛衰を刻んだ勝瑞は廃墟となった。
 ▲ 城址北側に設けられた休憩所。
▲ 城址北側の堀。

▲ 堀の内側に残る土塁跡。

▲ 「勝瑞義冢碑」。徳島藩儒官那波魯堂の撰により三好家の盛衰と戦没者の慰霊文が刻まれている。天明三年(1783)に建てられた。

▲ 三好家歴代の墓所。之長、元長、義賢、長治らの墓が並んでいる。

▲ 城址南側の入口に建つ城址碑。
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画像の撮影時期*2010/01

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