山崎城
(やまざきじょう)

                   安城市山崎町          


▲ 山崎城の古図を見ると方形の本丸の周囲を水堀が廻っている。この
画像は神明社北側に残る、かつて本丸を囲んでいた堀の一部である。

追われた老臣

 天文十二年(1543)、三木(みつぎ)蔵人こと松平信孝は主君松平広忠の名代として年賀の挨拶のために駿府の今川屋敷に向かった。
 この頃の信孝の権勢は主家である岡崎城の松平広忠を凌ぐものがあった。この前年、弟康孝の死によってその領地三木(岡崎市三ツ木町)を横領、さらには岩津松平家の遺領までも横領して所領を増やしていたという。しかも流浪していた広忠を岡崎城に帰還させた功により後見役としての権力も握っていた。
 広忠の近臣らが主家を凌ぐ力を持ってしまった信孝に危機感を抱いたのも無理もないことであった。信孝を駿府に向かわせたのはこうした危機感を持った広忠近臣らの計略であったのだ。彼らは留守となった三木城を攻め取り、信孝の帰城を拒んだのである。
 一方の信孝には広忠を裏切る気は無かったようで、弁明と謝罪を尽くしたが、近臣らはこれを無視した。
 帰城もままならず、追放された形の信孝は安城城に進出して岡崎城の松平方と対峙していた織田信秀を頼った。
 現在、城址に建つ山崎神明社の社誌には「…松平蔵人信孝矢作川平野を眼下に見渡し城塞に適するこの地に拠り山崎城とし威を西三河に張らんとして…」とあり、天文十三年(1544)に築城したと記されている。
 地理的には安城城の北西にあり、信孝は自ら織田方の出城としての任務を担ったものと思われる。
 天文十六年(1547)、信孝は矢作川を渡った岡崎勢を渡河原で撃退、翌年三月には織田勢とともに今川の大軍と小豆坂(小豆坂古戦場)に戦った。この合戦は織田勢が安城城に退散した形で終わった。
 合戦の翌月、信孝は手勢五百を率いて山崎城を出撃、岡崎城を目指した。信孝が敵としたのは主君広忠をそそのかした近臣らであったのではないか。信孝にとって織田方、今川方、そんな事はどちらでもよかったのだ。
 信孝勢は南から岡崎城に迫り、岡崎方の酒井正親や石川清兼の軍勢と明大寺耳取畷で戦った。戦いは岡崎勢の矢が馬上の信孝を貫き、信孝勢が壊滅して終わった。
 合戦後、届けられた信孝の首を見た広忠は、
「われらが無理に敵にしてしもうたようなものじゃ」
 と涙を流し、近臣らも鎧の袖を濡らしたと伝えられている。
 翌天文十八年(1549)、広忠は家臣に刺されて不慮の死を遂げた。今川氏は西三河を確保するために太原雪斎率いる二万の大軍を派遣、織田方の安城城を攻略して織田勢を駆逐した。山崎城はこの時に今川勢によって落とされ、廃城となったと言われる。
 後に、小牧・長久手合戦時(天正十二年/1584)、徳川家康によって補強されたとも言われている。

▲ 神明社南側に建つ鳥居の東側(左)には土塁の一部が残存している。
 ▲ 本丸跡に建つ山崎神明社。松平信孝が築城に際し、守護神として崇敬したと伝えられている。
▲ 東側から見た堀跡。

▲ 堀跡西側に立つ説明板。
----備考----
訪問年月日 2010年8月13日
主要参考資料 「安祥城物語」
「日本城郭大系」他

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