久能城
(くのうじょう)

                   静岡県静岡市駿河区根古屋       


▲ 南側から見た久能城跡。山頂近くに見える門は「一ノ門」で、かつての大手門である。

大御所家康の
        埋葬地

 久能城、または久能山城とも呼ばれるこの城は、元和二年(1616)四月十七日に徳川家康が駿府城に没した後、その遺命によって埋葬の地となった。以来、城としてではなく東照大権現(家康)を祭神とする久能山東照宮として現在に至っている。
 しかし、ここはまぎれもない戦国の城跡なのである。
 最初に久能城として歴史に登場するのは南北朝時代で、観応の擾乱のときである。この乱は足利尊氏と弟直義の戦いに発展し、ここ駿河もその戦いの場となっている。その際に直義方の入江駿河守が久能寺を城郭に仕立てて久能城としたのである。入江駿河守は中賀野掃部助らと共に駿府で尊氏方の今川勢と戦ったが敗北して久能城に立て籠もったと伝えられている。観応二年(1351)のことである。
 それから二百年以上を経た永禄十一年(1568)十二月、甲斐の武田信玄が駿河に進攻、今川氏真は駿府を脱して遠江掛川城に逃げ込んだ。
 瞬く間にするがを手中にした信玄は駿河湾を一望できるここ久能山に目を着けた。信玄は古くからこの山にある久能寺を村松(静岡市清水区)に移して城砦化したのである。
 現在、久能山から駿河湾を展望すると東は伊豆半島、西は御前崎に至るまで見通すことができる。つまり、信玄は北条水軍の動向をいち早く察知するために久能山を城砦化したものといえよう。
 城主は武田家臣今福浄閑斎、同丹波守昌和父子がつとめた。今福父子は天正元年(1573)に遠江諏訪原城が築かれるとその城番となったが、天正三年(1575)八月に徳川勢に攻め落とされ、浄閑斎は討死、丹波守は再び久能城に戻った。
 天正十年(1582)武田氏滅亡の年、久能城は駿河に進攻した徳川勢に攻められ、丹波守は籠城戦の末に開城して去った。
 今福丹波守主従七人は城を去ってもなお付近に潜み、家康の命を狙い続けたが、ついに果たすことができずに主従ともに自刃して果てたと伝えられている。
 家康のものとなった久能城には異父弟の松平勝俊が城主となった。
 天正十八年(1590)、家康の関東移封により駿河は中村一氏に与えられた。久能城には中村家臣松下吉綱が入った。
 関ヶ原合戦(1600)後、駿河は再び家康のものとなり、榊原清政が久能城の城番となり、後には子の照久が継いだ。
 久能城が東照宮となった後も榊原氏がその祭祀を代々司り、幕末まで続いた。

▲ 「楼門」。この門から社殿の建ち並ぶ一帯がかつての本丸部分にあたる。

 ▲ 表参道の1159段の石段を登りきると一ノ門である。

▲ 一ノ門。かつての大手門跡である。

▲ 一ノ門から駿河湾の眺望。遠く伊豆半島が見える。

▲ 一ノ門を入ると枡形となっている。城であったことの名残りである。

▲ 山内には二つの井戸跡が残る。この井戸は「勘介井戸」と名付けられている。武田方が築城に際し、山本勘介が掘ったと言われている。

▲ 社務所前に建つ「史蹟 久能山」の碑。

▲ 参拝料を納めて進むと「楼門」が建っている。「東照大権現」の額が目を引く。

▲ さらに進むと社殿である。元和三年(1617)の造営であるから家康公埋葬の翌年には完成していたことになる。

▲ 社殿のさらに奥へ進むと家康公の墓所である「神廟」に至る。最もおごそかな雰囲気の漂うところである。
----備考----
画像の撮影時期*2010/02

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