高山城
(たかやまじょう)

                   岐阜県高山市城山      


▲ 高山城は金森氏六代をもって廃城、取壊しとなり、徹底的に破壊されたた
めに往時の姿を想像することすら難しい。しかしながら部分的に復元、もしく
は壊された石垣跡などから、ここが飛騨随一の城郭であったことが分かる。

金森氏六代の居城

 高山城は金森長近によって築かれた城である。それ以前、この城山には天神山城と呼ばれる山城があった。
 高山城の前身であった天神山城は永正年間(1504-21)に飛騨国守護京極氏の重臣多賀出雲守の一族高山外記が築城したと伝えられ、多賀天神を祀ったことから城の名となったと言われている。高山の地名もこの高山市によるものと思われる。
 永禄元年(1558)、天神山城の高山外記は、飛騨半国を掌中にして勢い盛んな桜洞城の三木自綱(みつきよりつな)に攻められて滅びた。
 三木氏のものとなった天神山城には自綱の叔父久綱が入ったというが、その後の詳細は分からない。
 天正七年(1579)三木自綱は天神山城の西、松倉山に築城して桜洞城から本拠を移した。
 その後、三木氏は飛騨の平定をほぼ成し遂げたが、天正十二年(1584)に羽柴秀吉に抗した越中の佐々成政方に付いたため、秀吉の討伐を受ける身となってしまった。
 天正十三年(1585)、秀吉の飛騨攻略の命を受けた金森長近はその居城越前大野城を出陣して、飛騨の南北二方面から進攻を開始した。長近自身は北部から攻め込み、南部からは養嗣子の可重(ありしげ)が攻め込んだ。
 金森長近勢は三木木方の諸城を次々と落として天神山城(高山城)の北方約8kmの広瀬城を包囲、攻め落とした。広瀬城は隠居した三木自綱の居城てあった。自綱は京都へ追放となり、翌年に病没した。
 天神山城の東約3kmの鍋山城で可重勢と合流した長近は三木氏最後の城となった松倉城を攻め落として飛騨平定戦を完了した。松倉城の三木氏七代目当主秀綱は城を落ち、逃亡中に土民に襲われて落命した。
 翌天正十四年(1586)、戦功により長近は飛騨一国三万三千石を与えられ、越前大野から移った。
 はじめ鍋山城を居城としたが、狭くて利便性に欠けたのであろう、天正十六年(1588)からはここ天神山に新たに築城工事を始めた。この城が高山城である。飛騨の工匠を総動員したという高山城は山頂に本丸、山麓部に二の丸、三の丸を置いた平山城となった。
 慶長五年(1600)、関ヶ原合戦では東軍徳川方に付いて活躍、その戦功により美濃上有知一万八千石などを加増された。後に長近は上有知に小倉山城を築いて移り、隠居した。

▲ 二の丸屋形跡に建てられた金森長近公の騎馬像。
 慶長十三年(1608)、長近、没。長近の嫡男長則は天正十年(1582)の本能寺の変で織田信長の嫡男信忠とともに討死してすでに亡く、養嗣子として育てられた可重が高山城主となって飛騨一国を引き継いだ。
 可重は未完の高山城を完成させ、城下町の整備を進めた。可重の後、重頼、頼直、頼業、頼時と代を重ねた。
 最後の高山藩主となった頼時は五代将軍徳川綱吉の側用人となったが不興を買って元禄五年(1692)に出羽上山に転封、さらに同十年(1697)郡上八幡(郡上八幡城)に封ぜられた。
 金森氏の去った高山藩は幕府天領となり、高山城は加賀前田藩の管理下に置かれたが、元禄八年(1695)に取壊しとなり、わずか六十余日で徹底的に破却された。
 ▲ 二ノ丸跡は公園となり、創築者である金森長近公の像が建てられている。
▲ 二の丸公園からの登城路。

▲ 本丸屋形跡に設置されている復元図。他の城郭建築と趣きが異なっている。

▲ 本丸屋形跡。高山城の場合、本丸屋形、二の丸屋形、三の丸屋形というように屋形を付けて呼ばれる。

▲ 本丸屋形の玄関門跡(階段)と復元された石垣。

▲ 本丸の周辺に見られる石垣跡。

▲ 東北曲輪跡。

▲ 中段屋形付近の石垣跡。中段屋形は本丸と二の丸の中間の高さに設けられた曲輪である。

▲ 二の丸からの登城口に設けられた城山の案内図。
----備考----
訪問年月日 2010年9月4日
主要参考資料 「日本城郭大系」他

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